虚構の世界の住人

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復興予算を使い込んで一躍有名になった大雪りばぁねっと代表である岡田栄悟といい、ゴーストライターの存在が明らかになった佐村河内守といい、最近、おかしなニュースが多い。

さて、仕事のためにある程度のハッタリをかますのは誰にでもあるけれど、自分を器以上に見せかけるだけが目的の自己愛中心型の中には、不正を犯してもなんとも感じないというか、ハッタリで世の中なんとかなると本気で思っている方もいるから注意が必要だ。

こういったハッタリが功を奏した場合、①メディアが取り上げる、②ブームを察知した国や自治体が応援する、③有識者も加担する――という流れができるときがある。

佐村河内守や岡田栄悟のような輩がもし、わたしの周囲にいたら・・・と想像してみた。
おそらく、「おかしなヤツだ」とピンとくるハズだ。岡田栄悟は、なんていったって破廉恥な痴態顔舐め写真の数々を撮らせても平気な人物である。通常、なんとなく“近づいてはイケナイ”という本能アラームがものすごい勢いで鳴り響きそうな輩になぜ、人は騙されるのか少し考えてみたい。

「震災復興のため」としながらも、趣味の軍隊ごっこを国の金でまかない、研修と称しては一部の幹部のみで国内外に遊びに行ったり、被災地でニューハーフショーを開いたりとやりたい放題食べ放題の岡田栄悟。一方、佐村河内守はゴーストライターの存在も明らかになった挙げ句、耳が聞こえているのではないかという疑惑が勃発し、大騒ぎになった。実は問題になる前から、メディアへの露出が増えるにつれ、手に包帯をしたり、杖をついたり、急激に弱っていったのをみて、演技臭さを察知した。なんだか「天才芸術家は身を削り、苦しみもがいて作曲しているのだ」と不自然に誇示しているように感じ、確証はなかったけれど、疑わしいね、と家の中では話していた。

さて、大雪りばぁねっとの事業報告書の中には、行方不明者捜査救済活動や震災復旧、復興支援活動、復興のためのボランティアの支援や、振興のための人材育成など、もっともらしく良いことが詳細に書かれている。実際、岡田栄悟は遺体捜索のボランティアで岩手県山田町に出向いていた。活動の場を広げるためには人手も必要だ。そこで、「町民を雇用しよう」という動きに出た。これらの活動は評価され、町から特別職にあたる復興支援参与に任命されている。

交響曲第1番「HIROSHIMA」を作曲したと嘘をついた佐村河内守に対しても、広島市が「自らの苦と原爆の闇を重ね合わせながら、核兵器の廃絶への思いを込めている」と評価し、広島市民賞を授与している。

岡田栄悟も佐村河内守も一見、あたかも人間として正しい主張を前面に押し出しているところがキモである。奇妙さに気が付いた人のほうが間違っているように錯覚する場合があるのは、「こんな素晴らしい活動をしている人になんてことを言うんだ」という風潮を大勢と一体化することで作り上げていたからだ。

先述のとおり、ブームになると矢継ぎ早に権威のある人々(権威があるように見せかける人々も含む)が寄ってくる。ここで問題なのは、「著名な先生が高い評価をしている」、あるいは、「国や自治体が応援している」等の理由から、間違った判断をしてしまう人々が出てくることだ。大勢が騙される一因でもある。だからこそ立場のある方、有識者はしっかり見極める目が必要なのだと思う。

根本的な部分を考える能力が薄いと、重要な事がすっかり抜ける。スローガンの聞こえが良く、どんなに素晴らしくても、プロセスと目的、言っていることとやっていることが合致しなければ、主義主張に一貫性が持てず、そのうちメッキが剥がれるものだが、大雪りばぁねっとのように国のお金が流れていた場合は、大きな問題であろう。輩のただれた欲望に大切な復興支援のための資金が使われていたと思うと腹立たしい気持ちでいっぱいだ。

一見、支援や救済活動といった崇高な行動を示しつつ、自己犠牲の精神が皆無だったという彼ら。冷静な判断能力もなく、責任感もないから厳しい状況にさらされると、とたんに逃げ出すという悪質さも持ち合わせている。

実はこの事件のケースに似ている事例を最近知った。
彼の名前をXさんとしよう。詳細は省くが、彼もまた自己犠牲精神を前面に押し出しているわりには主義主張が一貫せず、道徳も著しく欠落していた。それを周囲が指摘し、咎めると、とたんに論点を変えて現実逃避をしてしまう。

自己犠牲精神で世の中を変えるといったキレイ事の中でXさんとXさんに依存すればなんとかなると思っている一部の人間だけが虚構のきれい事に酔いしれ、周囲はそのしわ寄せを食らい、ますます混乱するという現実がそこにはあった。

世間のトップに立つ自分の優位性を繰り返しドラマ仕立てで発するXさんをみると、「世の中を変えたい」という心に隠された根本部分が、他人を操作したいという歪んだ気持ちからくるものであると推測できた。おそらく本来の自分に自信がない。また、それを認めたくない。この自己愛を満足するには社会の称賛と自分を飾り立てる費用が必要であり、このアイテムをなんとしても手に入れたい――そんな痛々しい思いが漂っていた。

ところが結局、厳しい現実を突きつけられると逃げ出すので、一貫した筋が通らない。きれい事を並べる割には抜本的な問題意識や知識が薄いので、自ら発している矛盾や“不正”にすら気付かないことの“コトの重大さ”も考えることもない。考えることもないから反省もすることもない。

こういった闇を見抜けない人の中にはきれい事のカラクリに巻き込まれ、共に依存し合うようになるというダークなスパイラルに陥る場合もある。こうなるとやっかいなのは言うまでもないだろう。

人間だから野望があっても当たり前。野望は働く動機付けにもなるが、そこに“著しい不正”があってはならない。やみくもに他人からの称賛を異常に欲する場合、全エネルギーがそちらに集中してしまい周囲がみえなくなる。やってることと中味がまったくズレた発言もおかしい、と思わなくなり、倫理観が欠けていることすら気付かない。本気で金と権威でしか人を惹きつけられないと思っているとするならば、疑わしい品性の持ち主だということだろう。

こんな話、ひょっとしたら氷山の一角かもしれない。
弱者をむりやりつくりたがる輩は要注意だ。