直目

「ほこ×たて」ねつ造問題について

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「MECT2013」の会期中、元気に動き回っていたところ、タイミングが悪く、「ほこ×たて」のヤラセ問題が騒動となった。問題の内容を知って、非常に残念な気持ちでいっぱいである。

本当はせっかくコメントを下さった皆様に、一件、一件お応えしたいのだが、なかなかそうもいかず、ここで見解を述べたいと思う。

さて、問題のあった対決について私は観ていないが、告発した対決者の元ラジコン世界チャンピオン広坂正美氏の指摘を認めた形となった。

広坂氏のブログには、「2012年10月21日に放送された猿との対戦の際には、猿がラジコンカーを怖がって逃げてしまうので、釣り糸を猿の首に巻き付けてラジコンカーで 猿を引っ張り、猿が追いかけているように見せる細工をしての撮影でした」(一部抜粋)とあった。

これが事実であれば、道徳といった人間の根本的なことがすっぽり抜けているとしか思えない。もし、人間の首にヒモをくくりつけて走らせたらどうなるか。猿だって生きているし、感情だってある。ねつ造以前の問題だ。

結果さえ良ければいい、自分たちのシナリオどおりに動けば良い―――。
いつの間にか日本は、目的を達成するためには、手段を選ばなくても当然のような風潮になっていると感じた。物事の「正・悪」よりも視聴者ありきの、要するに数の論理重視の考え方が蔓延しているといった問題のほうが根深く、心配である。

さて、私はご承知のとおり、この番組の目玉企画である金属VSドリルを取材しており、普段から製造業界をウロついているので、この対決に限り、企業の取り組みについて全部ではないが、ある程度は理解しているつもりだ。

対決現場にいた私も出演者ではないのに夢中になったのは、取材をとおして企業の努力を知っていたからである。

番組では、技術的な観点からいうと、正直、多少「?」という表現もあったが、視聴者のほとんどは一般の方なので、理解しやすくするためには仕方ない。それよりも金属VSドリルのキモは、ものをつくる現場において、どんな難関でも立ち向かっていく――という強固な姿勢と勝ち負けの向こうにある企業努力だった。

視聴者は“技術・技能者の真剣な取り組み”に感動したのだ。
単なる勝ち負けに熱狂したわけではない。

テレビでは放映されなかったが、少なくとも金属VSドリル対決でみた技術者の涙は本物だった。大の大人が涙を流すことなどそうそうあるわけがない。そんな企業の努力も虚しく、今回のようなことが起きてしまったわけだが、なぜ、私がここまで言うかというと、社会性・公共性の高いテレビメディアの影響は大きく、国民に物事が間違いだろうが正しかろうが概念を植え付けやすい点に注目して欲しいからである。

やっかいなのは“無意識”に価値観や思想を国民に植え付けることも可能であることだ。裏を返せば、楽しい番組もたくさんある一方、一部の人間にとっては都合の良い価値観を国民に持たすことができるツールでもあるのだ、ということを認識してほしいのである。

偏った知識と間違った認識が垂れ流されぬよう細心の注意が必要なメディアが、このような努力を怠り、視聴率などの数字ばかりを優先して追いかけると、日本全体が世の中の善悪や真偽について鈍感になり、そのうち、無秩序になんでもありの考え方が蔓延する可能性だってある。ゆくゆくは日本がおかしな方向に向かう危険性だってあるのだ。

人間、生きていればある程度ハッタリも必要になるが、本質を疎かにし、その場しのぎの見せかけばかりに全エネルギーを集中させると、いずれ痛い目に遭うというのが世の常であり、実の前の虚はというのはそのうちメッキが剥がれるようになっている。虚構の世界を当たり前のように構築していると、そのうち、どれが現実なのか分からなくなって、現実がどこにあるのか見失う。

今回、「これをやれば視聴者は喜ぶ」という、一方的な思い込みがこのような残念な結果を招いてしまったといえるのではないか。視聴者の現実がどこにあるか見失ってしまったとしか思えない。

今回のねつ造問題はテレビ番組だけの問題ではなく、日本に蔓延しつつある「無秩序な、なんでもアリの考え方」をもう一度見直すいいキッカケになって欲しい。

読解力のない大人が子どもの想像力を奪う

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「はだしのゲンを閉架に 松江市教委が要請」というニュースを読んだ。

現実の汚いものから目を背け、子どもたちを現実逃避癖のあるお花畑の住人に育て上げるつもりでしょうか。たしかに暴力的なシーンがありますが、この漫画は作者の体験に基づいて描かれたものですから、貴重な資料ともいえましょう。漫画ですのでデフォルメされているでしょうが、幼い子どもからお年寄りまで、吐き気がするほど悲惨な経験をなさった方々がいたのが日本の現実なのです。

重要なことは、この漫画に描かれていることが、単に戦争の悲惨さだけにスポットを当てたものではないということです。想像を絶する混乱期に、人間がしたたかに、たくましく生き抜いていく、という姿を描いています。目を覆いたくなるほどの人間の残酷さを背景に、主人公の正義感が光っているのです。

ご飯が満足に食べられないくらい貧乏でも、勉強する機会に恵まれなくても、友情や家族の温かさは人間の生きる糧になるんだということを、しっかり描いています。陰湿なイジメや暴力に対比するのは、「他人を思いやる心」です。私はこの漫画のキモはココだと思っています。

中には歴史認識がうんぬん、という方もいらっしゃるでしょうが、成長すれば様々な疑問が出てくるのは当然であり、なにが正しいのか自分で調べて吟味すればいいことだと思います。人生、なんでも世の中任せではいけません。たまには世間の流れに疑いを持って自ら進んで調べることも必要でしょう。そうして、自分なりに解釈すれば良いだけの話です。

荻上チキ氏がTwitterで今回の閉架騒動に触れているのを拝見しました。
そこには「1巻から10巻までを見ると、時代ごとにだんだんとエスカレートして大変過激な文章や絵がこの漫画を占めている状況であり、第1部までとそれ以降のものが違うものということではなく、「はだしのゲン」という漫画そのものが、言い方は悪いが不良図書と捉えられると思う」と松江市議会議事録から引用した文言を掲載していました。この議事録はネットで確認することができます。

この不良図書と言い切った方は大人だというのに、この漫画のキモには触れず、暴力的なシーンやおゲレツシーンばかりに目が行ってしまったようです。読解力が乏しいとしか言いようがありません。いつの時代も真実や重要なことは大抵隠れたところにあり、それらを見つけるには洞察力が必要になります。表面ばかりしか見られない洞察力の乏しい大人が教育現場にいることのほうが、それこそ言い方は悪いのですが有害教育と捉えられても仕方がないと思います。
漫画に出てくる町内会長(鮫島伝次郎)のような大人を思い出しました。

最近では、広島平和記念資料館が展示してある被爆者再現人形の撤去を巡り議論が起きました。リアルすぎて気持ち悪い、トラウマになるという理由からのようです。

経験のない者がその事象を想像しようとするとき、ある程度のリアルは必要だと考えています。そもそも、広島平和記念資料館という場所は、遊園地に行ってアトラクションを楽しむような場所ではありません。どこか勘違いしているのではないでしょうか。

なにより、実際に原爆の被害を受けた方は、多くの方が火に巻かれ皮膚が垂れ下がっても歩いているというものすごいことになっているのです。それを「リアルすぎてトラウマになる」とは、被害に遭った故人やご家族に失礼なことだと思いませんか? 私がもし、その時代に生まれていて家族や友人がなんの落ち度もないのにそのような姿になったら「気持ち悪い」なんていっていられませんし、自分がそのような姿になったとしても、他人に「あんたがいると気持ち悪い。見たくない」と言われたらものすごく悲しくなります。

このままでは、そのうち戦争はおろか、近年起きた震災の悲惨な状況も、凶悪事件に関するニュースも「トラウマが残る」からといって描写も不適切だ、となりかねない。そうなると事実を継承する手段が失われつつあるということで、その影響は大きいと感じています。なにより個人の考える機会を外すのは問題であり、文明国のやることじゃない。

人は様々です。同じ出来事に遭遇しても、同じ感想を言うとは限りません。
いろんな感情を持って当たり前なんですから。

ちなみに私が生まれて初めて手にした劇画タッチの漫画は、はだしのゲンでした。ピアノ教室に置いてあったのを読んだのが最初です。学校の図書館にもありましたから、自発的に手に取って読みました。この漫画は経験したことのない戦争を知るキッカケになり、漫画から戦争の悲惨さを感じ取ったわけです。お陰様で残酷なことや、きれい事をいって表面だけ取り繕う人を好まなくなり、今ではたくましく生きております。

作者の中沢啓治さんの「はだしのゲン わたしの遺書」の中に、こんなフレーズがありました。

――いまも、生きるつらさに直面している人は大勢いると思います。そんな人達に、ぼくは、歌を歌えと言っています。悲しい、悲しいと思ってばかりいては、落ち込んでしまいます。そんなときゲンは、何がなんでも生きるために、バイタリティーのある歌やふざけた替え歌を、わざと大口を開けて歌います。みなさんも、ぜひそうしなさいとぼくは言いたい。「負けてたまるか」という気持ちを奮い起こして、生き抜いて欲しいのです――

生きているといろんな辛いことがありますが、辛いときに勇気とパワーを与えてくれたのは、この漫画でした。感性の豊かな子ども時代に読んだこともあってか、私にとってそれだけ影響力があったのです。

「踏まれても踏まれてもまっすぐに伸びる麦のようになるのだ!」

愛のない外食産業とクーポン

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近年、よく見かける外食産業のクーポン。
簡単にいえばグルメ情報を扱う媒体に協賛している店の割引やなんらかのサービスを受けられるチケットのようなものだ。

「暑い! ビールを飲みながら肉が食べたい!」

我慢できなくなったのでコテコテの肉を食すべく、すでに高齢に達している身内をそそのかして、先日、近所の某外食チェーン店に行ってきた。

はやる気持ちを抑えてネットで開店時間を調べると、クーポンがあった。
そのクーポンは飲食代が一定金額を超えると会計時に1000円も値引きがされるものだった。

ヤッタ―――☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆―――!

「ねぇねぇ1000円も値引きされるんだよ、行こうよ!」と、肉をあまり食べたくなさそうな高齢者に1000円値引きを強調した私。

「高級店じゃないし、高くつかないから大丈夫だって! 白米をいっぱい食べるからさ!」と、暗に、①財布のダメージが少ないこと、②こちらから誘ったくせに支払いをする気持ちがこれっぽっちもないこと―――を匂わせた。

まんまと目的の店に行くことに成功し、席に座ると勢いよく注文した。すっかり欲望を満たした私は、膨れたお腹をさすりながら、なんともいえぬ幸福感に包まれていた。

(食った食った~~あぁ~~幸せ~~♪)

幸せいっぱい腹一杯、私のお腹はポンポコポン♪ 
財布は出さぬが割引クーポンがある。会計時に店員さんに提示した。

すると意外な答えが爽やかに返ってきた。
「あぁ、これは入店時に提示してくれないと使えないんですよねぇ」
 
なんですってぇええええええええ!!!!!!!!!!! 

一瞬にして“ムンクの叫び”にソックリな表情になったわれわれ。

「え? そんなこと書いてあったっけ?」
もう一度クーポンを確認する。
確かにクーポンには、入店の際に見せなければ効力がないとひっそり書いてあった。私は膝から崩れ落ちた。なんてこった!

肉とビールにすっかり支配されてしまった私の脳は、ド派手な1000円値引きの文字しか目に入らなかったようだ。疑い深い性質なので、このような文言には隅々まで目を通すはずだが、空腹になると注意力に欠けるという恥ずかしい癖がそのまま出てしまった。

まあ、これはこちらが見落としてしまったのだから、クーポンが使えなくても文句は言えまいが、フと疑問に思ったことがある。

もし、この店が客にサービスをする気があって、提供する食べ物が同じ量・クオリティのものであれば、サービスは一定金額を超えた場合、会計から1000円を値引きするというものだから、クーポンを食後に見せようが、入店時に見せようが、問題はないだろう、と言う点だ。
これだと、クーポンを先に見せたら質か量を低下させる、と、疑われても仕方ない行為だと感じる。遅出しジャンケンのようなアンフェア感が拭えないのだ。

最近、10年以上通っていたレストランでも不快なことがあった。
そこはサービスも良く美味しくて、私はここで食事をするのが楽しみだった。
ところが最近、ある日を境にスタッフがほとんど変わってしまった。噂ではオーナーが変わったらしい。

メニューと値段はそのままに、味が変わっている。簡単に言うと、食材をケチりはじめたのだ。私はシーザーサラダにアンチョビが抜かれていたのを見抜いた。魚介が使われていたピッツァもむきエビが半分にされていた。美味しかったレバーのパテも全く味が違っていたし、毎度、添えられているスライスして焼いたパンはクラッカーになっていた。

商売を続けていると苦しいこともあるのは当然のこと。生き残るためにはいろんな方策を考えなければならないことも分かる。でもこれじゃあ、あまりにも能がないんじゃないか。

経営難だったら、メニューをイチから考えるとか、色々考えることはあるだろう。メニューはそのままで食材をケチってクオリティを落とし、利益回復を目指す行為は、長年通っていた客を騙し討ちにするようなものだ。長年通っている客の舌は料理の味を覚えているんだぞ。

ははぁ・・・口うるさい近所の者より、小洒落たカップルなどに重点を置いて回転数を上げる作戦に出たんだな、と思った。お洒落な店なので、その手法もしばらくは通用するのだろうが、値段以上の付加価値を求めるのが人というもの。特にレストランの場合、店の味がリピートの決め手になる。

このレストランのある地域は、こぢんまりとしているけれど、同じような値段で素晴らしいサービスと味を提供するレストランがたくさんある。長年通っていた客を騙し討ちするような考えでは、客が離れるのは時間の問題であろう。

食べることは、人間の身体が生命を維持するために必要なこと。
だからこそ、食事は、楽しく、おいしく食べたいもの。
財布の事情もあったり、時間の事情があったり、健康上の問題があったり、その時の食卓は人様々で、毎日満足にいくことは難しい。

外食産業は、人間の根本に触れる商売だと思っている。客の空腹だった胃袋が満たされ、幸せな気分を味わえるようにと、そういった部分をもう少し大切にしてくれても良いのではないか。

値引きされればサービスの低下は仕方ないという考え方もあり、否定はしない。
だが、それ以前に、“フェアじゃない商売”は良くないと思っている。

どういうわけか、最近、この手の手法がまかり通っているようで、ものすごく残念だ。

ライフスタイルの多様化

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人々のライフスタイルも多様になった。
少子高齢化に収入の低下、はたまた失業の恐怖、病気への不安などなど、人は悩みがつきない。

少しでも安定した生活を送りたい・・・と誰もが願うだろうし、当たり前の欲求であるが、安定した生活には安定した収入が必要というもの。少しでも生活を豊かなものにしたいのは、若者だろうが高齢者だろうが男性だろうが女性だろうが中性だろうが、みんな一緒の欲求だと思う。

ところがどういうわけか、最近、ニュースをみていて日本は本当に先進国なのか? と疑わしいと思うことが度々ある。

最近、ものづくりに女性の活用を! みたいな流れが目につくけれど、どうも議論が女性の苦労話にばかり視点がいってしまう。そりゃあ、私も女性なので、その苦労はよく分かっているつもりだ。過去にもオンナはすっこんでろ! みたいなことがあったり、イヤラシイ写真を堂々と見せつけたりする人もいた。なんとなく、そういう発想は中高年の発想だ、と思いやすいが、ところがどっこい、そういう環境下で育成されると、そういう発想を若くても持つものだ。まぁ、こういう類いはすでに時代の遅れをとっているので、ここでは省くことにする。

さて、話を元に戻す。
私がなにを言いたいかというと、女性の活用を! と言っているわりには、ニュースをみても議論の内容がパッとしないということ。すでに女性の活用は当たり前になっているというのに。

ここで注目して欲しいことがある。
女性の多くは出産を経験する。つまり働けない期間が出てくるが、仕事が好きでたまらない、あるいは、少しでも豊かな生活が送りたいなど、働く動機が当たり前にあることは、なにも特別なことじゃない。今度は、同じ、働きたくてもフルタイムで働けない事情のある、たとえば、介護の必要な家族がいる方はどうだろう。働きたくても働けない事情があるのはなにも女性に限ったことではない。人にはそれぞれ働く理由があるのだ。

独り身の女性も男性も家庭を持つ方も、それぞれ生活環境は様々なわけであり、どんな人でも生活するためには収入がいる。収入を得るためには働かなくてはいけないし、働く土壌であるわが国では少子高齢化などの社会問題もあり、様々な観点からみても日本は労働力が必要だといえるだろう。

さて、その一方、雇用する側もいろいろ悩ましいところがある。

最近取材したイワタツールさんの場合、ちょうど妊娠・出産を経験した女性や高齢者の従業員(最高79才・最近リタイアした)の話も経営者から聞くことができた。そこで感じたことは権利と義務がとてもバランスよく保たれていたということだ。権利ばかり主張して義務を放棄する社員が増加すると、会社は間違いなく傾くだろう。

働く女性は当たり前に増えている。最近はパワハラ、セクハラ、マタハラ(マタニティーハラスメント)、中高年イジメ、などなどいろんな問題がある。いまさら、女性の活用をどうするか、なんて、そもそも時代遅れのナンセンスな発想だと思う。性の観点から物事を捉えるより、“適性”を重要視したほうがいいと感じる。

製造業はサービス産業と違い、いろんな人々が働ける土壌がある。
今、議論しなければならないことは、“性別や年齢を理由に余計な先入観など抱く必要もない風土をどうやってつくるか”―――だろう。
いろんな人々が社会を構成しているのだから。

中小企業への理解と社会の難しいところ

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中小企業の良さを理解してもらう・・・という動きが活発化されているが、そこで働いている人間の生活に対して議論が少ないのがとても気になる。
ここ10数年で個人のライフスタイルや企業スタイルも多種多様になった。日本を取り巻く経済環境も大きく変わり、国際競争力は激化している。
以前、「勝ち組・負け組」という言葉が流行ったが、今じゃ勝ち残るよりも生き残ることが先決だという厳しい世の中だ。大企業だから安定、ということもない。企業の善し悪しは規模では決まらない。

さて、中小零細企業への理解を若者に深めてもらおうという動きも見られるが、その前に抜本的な問題を挙げることにしよう。

具体的にいうと、将来マイホームなどを購入するなど、人生において重大な決断をする場合、銀行などは社会的なステータスによって明らかに対応を変えるという事実がある。

この違いをすでに若者は理解していることを忘れてはならない。若者が理解できないのは中小企業よりも社会の仕組みなのだ。

どんなに優秀な人材でも務めている会社が中小零細の場合、厳しい現実を目の当たりにするという事実。実際に経歴をみても非の打ち所のないような方から「親の経営する会社に転職したらマンションが借りられなかった」という話を聞いたことがある。

技術力が高く、社長の手腕もある元気な中小企業に優秀な若者が入社して、将来、人生の重大な決断をしたときに社会は何を基準に判断するのだろうかという点はこれから議論が必要であろうと考える。

すでに将来を担う若者は素晴らしい技術を持った中小企業が多く日本にあることも認識しているし、十分中小零細企業の理解もしていると思うのだが、どういうわけか中小企業というと一部の顔色の悪い経営者とこれまた一部の産業に疎い政治家やタレント学者がこぞって「世の中は中小零細企業の良さを分かってない!」と声高に叫び、煽るに煽っている印象がある(もちろん、そうでない人もたくさんいる)。

これについては、中小零細企業=弱者のイメージがあることをいいことに、中小零細企業の問題を解決する――ということよりも、弱者を救う素敵なオレ(わたし)を見せつけることが目的なんじゃないかと疑りたくなるときもある。せめて「中小零細企業の良さを分かったところで社会はどう対応するのさ」というところまで突っ込んで欲しいと思う。

一方、重要なことだが、中小零細企業ありきでモノを考えると、能力のある会社と他力本願の会社が中小零細企業というワクの中でグチャグチャになってしまうという危険がある。有能な会社は伸びる可能性が高いわけなのだから、そういう会社をもっとバックアップするべきだろう。悪い会社に引っ張られて元気の良い会社が貧することがないよう気をつけなければならない。また、景気の善し悪しに関係なく業績が悪いとするならば、一概に、悪いのは社会のせいではないということを付け加えておこう。

今、変えなければいけないのは中小企業へ対する認識じゃなく社会だ。
根本的な問題を解決するためには考えなければならないことがまだまだある。

最近はマジメな顔をした有識者がまじめな顔をしてデタラメを言うこともしばしばあるので気をつけなければならないと思っている。

文句ばかり出るのは不安に浸かっている証拠

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国内市場の縮小に伴う仕事そのものの減少は、経済的な問題を引き起こし、精神的にも肉体的にも休むことが困難になる。これがストレスにつながっていくわけだが、ストレスは胃を弱めるなど肉体のダメージはおろか、時間が経てば心も蝕ばんでいくからやっかいだ。

不安要素の前をあれこれ並べては心配ばかりしている人もいる。その不安のベクトルは、世間が悪い、政府が悪い、企業が悪い、と全てナニかのせいにしていることも非常に気になる。未来を「暗いもの」と位置づけ、幸せを感じることができないのはなぜだろう。

不安に浸かっている人の中には、その不安を周囲に見透かされぬよう凶暴な態度に出るものもいる。自分よりも弱そうな人物を見つけて叩けば、優位性を示せる――と本気で考えている幼稚な考えの持ち主であろうと想像する。私の場合は女性であり、大手媒体でもないので、この手にごくたまに遭遇することがあるが、一度だけ不快感を示したあとはスルーすることにしている。

さて、世間や環境の悪口ばかりをいう人の多くを拝見していると、心配で心の中がいっぱいでありながら、不安を払拭するための方法を探そうとしていない。モチベーションを上げるための努力もせず、やってもいないのに「それをやったからといって現状は変わらない」と、たとえ努力している人々が目の前にいたとしても、一言水を差さずにはいられないのだ。

社会に対しての敵意と憂うつにコントロールされた人々は未来のための努力をするエネルギーが枯渇しているようにも感じられる。いつも不安で将来の心配ばかりしているから心身ともに疲れきっているのだと思う。疲れきって、にっちもさっちもいかなくなっているから、惨めな自分にしたのは周囲だ、環境だ、会社だ、あいつだ、家族だ・・・と恨みつらみをいいたくなる。だからますます孤立し、孤独感に苛まされ、不安や心配が溢れて、みだりに迎合したり、何も手につかなくなるのだと思っている。

成功者といわれている人の共通点は、どんな時代であっても、逆行でも「信念」を貫いている。何度失敗しても、笑われても、「成功する」ことを大前提として動いているし、失敗しても「うまくいく」ことを当たり前として捉えて前に進んでいるように感じる。

世の中には動き続けるものは動き続け、止まるものは止まり続ける―――という慣性の法則があるのだし、どうせなら楽しく動いていたほうが徳だと思っている。

モラルの欠如

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先日、突然、こんなメールが入ってきた。
内容は2年ほど前に掲載した某販売店のニュース記事についてである。2次店等のしがらみで「取り下げてほしい」ということだった。ちなみにその記事は、その会社が自らリリースをしたもので、すでに他の媒体も掲載している。何度も言うが、もう2年ほど前の話である。

当然のことながら、「正当な理由がない限り削除はできません」と返答した。

その理由は、ニュース自体が間違っているならともかく、こちらはなんの落ち度もないわけで削除する理由が見当たらないのと、ニュースのデーターはそう簡単に削除できるものではないということである。掲載済みのニュースは記録でもあり、財産でもあるのだ。

そもそも、なぜ、自分たちの問題をこちら側にぶつけてくるかもさっぱり理解できなかった。その後、先方の社長からお詫びの電話がかかってきたが、相変わらず削除してほしいとのこと。その理由を尋ねると、恥ずかしくもなく、こう述べた。

「僕のポリシーですから」

・・・・・・ううむ・・・。ますます理由が分からない。

事実が変わったのであれば、新しくリリースを発表すればいいだけの話である。
臭い物にはフタをすることがポリシーだというのか。
過去の失敗を消してリセットしたい気持ちも分からないではないが、そこには秩序があってしかるべきであろう。

だいたい企業において問題ごとはつきものであり、どの企業もその都度きちんと対応しているのが現状である。高飛車に他人の権利を奪うことに対して、なんの罪の意識も感じない社長がいることに驚いた。こんなケースは長年仕事をしてきて初めてだ。

一度発表したものを先方の自己都合でボコボコ削除していたら、ニュースの役目はなくなってしまう。そんなことをしたら、ニュースの配信を商いとしている私自身、信用を失うことになりかねない。自己哲学のない書き屋は消える運命にあるからこそ、「責任」と「信念」を持って執筆しているのだ。簡単に原稿を消すことはできない。

ニュースのデーターそのものはこちらの財産でもある。こちら側の権利については一切触れず、一方的に「ポリシーだから削除しろ」というのはおかしな話であり、このような高飛車な理由を受け入れる理由など、こちらにはないことをはっきり述べた。

正直いうと、他人の権利を剥奪するようなことを平気で口にする相手のポリシーなんて、こちらは知ったこっちゃないのだ。このような要求に対しては受け付けないことを加えておこう。

さらにダメ出しをしたいことがある。このような問題があった場合、社会通念上、メールや電話ではなく、直接会って話しをするものじゃないのか。私は基本的に優しい人物であるから、相手が本当に困っているならば、なんとかしようと思ったかもしれない。

相手の顔を見ずにお詫びをしたい、さらには当然のごとく自分の要求を受け入れてもらおうなんて傲慢というもの。ご都合主義で、なんでも自分の思い通りにいくと思ったら大間違いだ。
どんな商売でも、相手の立場を無視した一方的な対応は御法度である。

大津市生徒暴行隠ぺい事件にみる教師の罪とトラウマ

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あまりにも衝撃的な事件であり、専門外だが思わず書かずにはいられなくなってしまった。

ニュースではイジメとなっているけれど、明らかに“暴行・隠ぺい”事件であり、この問題については、おそらく日本中が怒りに燃えていると感じている。

“マトモな学校生活”であれば児童たちは「集団で時間を共有することは我慢も必要である」ということを知る。学校は個性の集まりでもあるから、元気のよい子も、乱暴な子も、恥ずかしがり屋な子も、おとなしい子も、教えを守りながら協調性を学んでいく。
もちろん、ちょっとしたイジメに近いこともあろう。学校生活は、他人に不愉快な思いをさせることはイケナイことだということや、多少イジメられても対応できる精神力を鍛える・・・といった情緒教育に必要な時期・課程でもある。
そうして悪いことをしたら反省をして罪を償うことを学んでいく。

この大津市暴力・隠ぺい事件で、生徒の心の叫びを無視した教師をニュースで拝見し、私は小学6年生の頃を思い出した。絶対に忘れることはできないトラウマがある。
ここで書くのもおぞましい出来事だが、あえて書くことにしよう。
このような問題は表面化しないだけで全国的に昔から隠されていると睨んでいる。

教育の現場では問題が山積みされている。とくに地方に行けばその傾向は強く、重大な問題があっても地域ぐるみで事実を捻じ曲げ隠ぺいし、問題は表に出ないことが多い。

私が小学6年生のころ、ヤマゴン(仮名)という男の子がいた。ヤマゴンはいじめられっ子だった。難癖をつけられては、いつも誰かに蹴られたり殴られたりしていた。ヤマゴンは静かな男の子で、たまに泣いたりしていたけれど、ほとんど下を向いて我慢をしていた。

ある日、いつものようにヤマゴンはイジメにあっていた。それを見ていた担任は「ダメじゃないか」といじめっ子に注意をし、1時間ほどクラス全員で話し合う時間を設けた。

話し合いは進んだ。当然のごとく、ヤマゴンは「自分は何もしていないのだから殴らないで欲しい」と訴えた。先生は暴行を加えたいじめっ子に、「なんでヤマゴンを苛めるのか」と問うた。

暴行を加えた男子らは、「ヤマゴンは不潔だし、注意しても直らないから殴った」と説明した。それを受けた担任は、「不潔なヤマゴンは分かった。みんな、他にヤマゴンに言いたいことはないか」と、クラス全員にひとこと言うよう勧めた。

みんなは、ひとりずつヤマゴンの欠点を述べた。欠点といっても、「給食を残す」、「食べ方が汚い」、「鼻くそをほじっている」、「くさい」、「ジャージに毛玉がついている」など、実にどうでもいいことだった。一方的に吊るし挙げられたヤマゴンはいつものように黙って下を向いていた。

私を含めたクラス全員、誰一人もヤマゴンをかばうことをしなかった。ヤマゴンの我慢強さを褒める人もいなかった。そりゃそうだ。小学6年生ともなると、場の空気を読むことくらいはできる。イジメのベクトルが自分に向かうことが怖かったのだ。
クラス全員が悪口を言う・・・・という催眠状態に陥った、という感じだ。
先生は、ペンッ! と両の手を打って大きな声で言った。

「ヤマゴンをどうするか多数決で決めよう」

暴力的ないじめっ子は、暴力行為を行った罪を免れた喜びで調子づき、真っ先に手をあげた。
「みんなで一発ずつ殴るのがいいと思います」
この提案に担任は乗った。

「それじゃあ、みんなで一発ずつ殴ったらいいと思う人は手をあげて」
多数決の結果、ヤマゴンを殴ることに決定した。

「じゃあ、みんな、一発ずつ殴りなさい。いいな、ヤマゴン」
ヤマゴンは、皆の前で椅子に座らされ、クラス全員40人ほどに一発ずつ殴られた。先生が殴っていいと明言したものだから、張り手の子もいたし、ミゾオチ付近をグーで殴ったりした子もいた。担任はそれをじっと見て、ときおり笑いを我慢しているかのように唇が歪んだ。

ものすごく怖かった。
ヤマゴンは椅子に座りながら腹部をかばうように小さい身体を丸めていた。
私の番がきた。ヤマゴンが泣いているのを見て、手が震えた。いつもは暴れん坊の私も子どもながらに理不尽だ、と思った。「ごめんなさい」と口を動かしてみたものの、声が思うように出ず、かすれて消えた。私はヤマゴンを叩いた。

担任が怖かった。私もこの担任の暴言によって非常に傷ついていたからだ。同時に、「こんなことやめよう」という止める勇気がないふがいなさを恥じた。

この担任は最後まで、理不尽な暴力が反社会的なことであり、やってはイケナイことであるとの説明を子供たちにすることはなかった。
この教育現場で起きた異常な出来事は今でも心の中に重たい鉛となって沈んでいる。こんな経験、したくなかった。

このように理不尽なことがまかり通っている田舎の不思議な環境に、どっぷり浸かって少女時代を過ごしたせいで、大人になった今でも学校教育に対し、憤りと疑惑が常に付きまとっている。
子供を産むのが怖いと思っていたのは、こういうトラウマも原因の一つなのかもしれない・・・と思うと、担任の犯した罪の大きさを改めて感じることができる。ヤマゴンのように理不尽な思いをした子供が将来どんな大人になっているか会うこともないので分からないけれど、トラウマが発生している可能性は高いだろう。自分だってこの腐った環境を経験したせいで、“子供を産んで育てる”ことが、すごく怖くなったことは確かであり、この傷が癒えることはない。

田舎は特に権威主義が横行しているのも事実であり、絶望的だ・・・となると、周囲の大人が子供たちを守る意識を強く持つことが必要だと思う。

子供は世間を知らないから、自分の未来がうまく描けないのは当然のこと。いくら大人が、「頑張って勉強して見返してやれ」とか、「学校に行かないとロクな大人にならない」と主張してみても子供には通じない。だいたい、イジメが深刻化しているのに、そんな呑気なことを言っている場合じゃない。すでに子どもは死を選択している可能性だってあるのだ。

子どもの命よりも大切な学校なんてない。勉強なんていつでもできるし、遅れた分だって取り戻すことはいくらでも可能だ。だけど命だけは取り戻すことはできない。

子どもが学校で重大な問題を抱えて絶望していたら、大人がしなければならないことはまず、ぐちゃぐちゃ言う前に速やかに環境を変えることだ。
生きることが先決、命よりも大切な学校なんてない。

学校は生徒の安全を守る義務がある。今回、この義務を放置しているという問題が浮き彫りになった。安全のない学校が当たり前であるならば、ゴミのような教師なんて削減して、その分、警察官および警察官OBなどを学校に常駐させればいい。暴力行為を正当化するクソガキへの抑制効果になるだろう。我ながらいいアイデアだと思っている。

また、残されたご遺族にとっては子供を理不尽な形で奪われたという、まさに生きているのに殺されたに等しい地獄を味わっている。多感な年ごろのクラスメートにとっても同様に心に傷が残る場合もあるので、精神面のケアについて対応策が急務だろう。

巨大ぼったくり慣習に喝!

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国民の源泉徴収制度は国にとってなんて楽な制度なのだろう。
もともとは戦争費用を賄うために手っとり早い徴収方法として戦前にこの制度が出来たとされている。税金を取る側は民間と違って、頭を下げなくても金を集めることができるわけで、なんてったってウマイ話である。こんな楽な制度はない。

サラリーマンの所得はガラス張りで所得税は強制的に天引きされる。その上に、厚生年金、介護保険等も天引きされる。こういった社会保険料も税金と同じようなものだ。これらが、まともに社会に反映されるなら良しとするが、過去のいきさつからして、紛失した年金、箱モノ問題をはじめ、何百兆円という爆大な金が無駄になった。

私は年金問題、箱モノ問題を忘れない。忘れそうになったら、たまには思い出すようにしているくらいなので、脳になにかしらの病が見つからない限り、絶対に忘れることはないだろう。

なので、社会保障のためにも消費税を上げる・・・と言われても、従来のイキサツからして信用していいものかどうか眉をひそめてしまう。おそらくほとんどの国民がそう思っているに違いない。

このようなことに関連して、いつも温和な私が拳を震わせていることがある。
介護保険のことだ。
この問題は、われわれ老後の生活に大きく左右するので、言わせてもらうことにする。

基準段階が10段階ある。資料を見ると、合計所得金額で徴収額が変わってくる。
ここで疑問が生まれた。「200万円以上」と「500万円未満」が同じ扱いなのはなぜか。

考えてみると、年間合計所得金額が200万円と499万円は貧困度合いが違う。年金生活者の実生活では天と地の差があるといっていいだろう。このカテゴリーの中では、現役時代、平均的なサラリーマンだった層も含まれる。
おそらく日本で一番、介護保険料を取れる層であろう。

私が言いたいのは、年間約500万円あれば、工夫をすれば生活できるだろうと思われるが、たった1万オーバーしただけの201万円の方の生活は困窮するに違いないということだ。200万円と499万円の層が一緒になるなど、いくらなんでも大雑把すぎやしないか。一番徴収しやすい層を大雑把に扱うことに疑問を持つ。

一方、合計所得金額が800万円と1000万円じゃ生活レベルはそう変わらないと睨んでいる。このような所得の層はオーナー会社を経営している等の環境に身を置いている方が多いと思われ、全国の高齢者の中で一握りの方々であろう。

ちなみに合計所得金額の低いランク分けは125万円から200万円、125万円未満、80万円以上、80万円以下と細かく分けられている。

ボリュームゾーンである200万円から500万円未満を、せめて100万円区切りにすべきだろう。先述のとおり、生活レベルが201万円と499万円では、生活の困窮度合いが全く違うのだ。

もっと腹立たしく感じることがある。
“年間の年金額が18万以上”の方が対象の『特別徴収』だ。
「あー」も「うー」も言わせず、年金から天引きされる老人。
はっきり資料にはこう書いてある。

「ご本人の希望・申し出による納付の方法の選択はできません。」

年金が年間18万以上―――。(これらについてサラッと書いていることがなおさら腹立たしい)
低所得の方々はこの年金のほとんどが介護保険料になってしまう可能性だってある。しかも無理やり天引きされるのだから、どうやって生活するのか想像するだけでも悲惨である。

年金受給者の中には、自分のかけた年金があやふやになって、まともに貰えない人もワンサカいるという大事件まであった。

現在、多くの老若男女たちが暑い中、クーラーなどの電気代や食事代を節約しながら生活している。高齢者などは、体調不良でも孫にオモチャを買ってあげたくて、病院に行くのを我慢している人もいるだろう。

年金の責任も取らずして、失敗した政策にも目を向けず、国民から取れるだけ取って失敗の穴埋めをするなど言語道断だ。どこまでぼったくれば気がすむのだろう。
国民の所得は透明で当たり前で、国は不透明で良しとするこの風潮。それでも「仕方ない・・・」と指を咥えて納得しろというのか。

高齢者の年金受注額が年間18万円しかなくても無理矢理わずかな年金から保険料を口座から天引きするとは、いくらなんでも非情すぎる。国民の年金を滅茶苦茶にしときながら、とにかくムシリ取るのが先で、貧困老人が生活できなくても知ったこっちゃないという姿勢に憤りを感じる私。思わず、「この極悪、鬼畜、野蛮、破廉恥! きゃーっ!」と罵りたくなる。

最大の問題点は、本人の意向を無視して年金から天引きし、老人が生活できなくても「これが法律だから従え!」というこの姿勢である。

私個人の考えだが、本人の意向を無視したお金の取り方は、ペナルティーが付くうえ、なにより国民の『生活する権利が奪われる危険性』を孕んでいる。したがって、国は法律にひっかかる可能性もあるわけで、重大な問題であるといえよう。

こんなことばかりやっているもんだから、いくら税金で福祉を充実させるって言っても信用ならないのは当然であり、わが国の“巨大税金ぼったくり慣習”に、国民はもっと疑問を持ってもいいだろう。

混沌とした世の中にホントの己を見せてやれ!

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最近、物事の本質を見抜く大人が少ないと感じることが多い。
多数がそうだからといって、それが正論だとは限らないこともある。

人というのは多数の意見に流されやすい。流されているほうが楽だからだ。
特に主体性がない人は周囲に依存したくなる傾向があるように思う。おそらく依存していれば、うまくいかない自分を社会のせい、環境のせい、周囲のせいにすることができるので、「できない自分」を認めなくて済むからだろう。「仕事がないのは社会のせい」と言い切るほうが不甲斐ない自分から逃避できるし、傷つかなくて済む。

特に厳しい経営環境に置かれている方々にとっては、将来的に不安である。なんとかしなければ死活問題にかかわるわけで、いてもたってもいられない心情であろう。
自分(会社)の弱点を認めている方は、解決方法を模索し、友人や同じ志を持つ仲間たちの刺激を受けながら、次の展開を考えているのでここでは省くことにするけれど、問題は、できない自分を認めたがらない人々と、それらを巧みに利用する人々である。

できない自分を認めたがらない人は不安であるから誰かと迎合することで安心し、類は友を呼ぶ法則から同じようなタイプが自然と同調していく。人の集まるところには様々な人が興味を示すのも世の常であり、困った人たちを利用しようと近づく輩も現れる。

その場合、疑問に思うことは、目前にある抜本的な問題点をクリアする前に、世の中を変えようという突拍子もない動きに悪乗りすることだ。そんなエネルギーがあるなら、てめぇンとこの注文のひとつでも取るよう営業努力をするほうが先だと思うのだが、残念なことにそういう考えはないようだ。

中には自分の仕事に対し、「このご時世、やっても無駄」という投げやりな人もいたけれど、なぜ、やりもしないのに、無駄という妄想を抱くのだろうか。

自分の置かれた環境に不満がある場合、周囲を変えることに注力するよりも、まず、自分を変える努力をすべきであろう。そうするとおのずと自分を取り巻く環境も変わってくるというもの。そんなに嫌なら自分を取り巻く劣悪な環境を改善するためにも、ベクトルは世の中ではなく自分に向けたほうがいい。おそらく目の前のことができない人間が1万人集まっても世の中はなにも変わらない。一歩間違えなくても単なる烏合の衆だ。

最近はSNSの普及により仲間を簡単に集うこともできるが、迎合と協調は違う。
希薄な人間関係をいくら構築してもあまり意味がなく、人間関係は量より質であると感じている。利害を目的とした付き合いからスタートした場合は特に注意が必要で、いつの間にか他人の人脈や仕事を搾取することばかりを考えているズルイ人間に囲まれていたというのはよくある話だ。このように残念なことにならないためには、まず自立を恐れないことだと感じている。肝が据われば環境や周囲の影響を受けなくて済む。これを実行すれば、余計な人間関係に振り回されることなく、自分にとって良い影響を受ける人にだけ囲まれるようになる。誤解があるといけないので加えておくが、SNSが悪いといっているのではない(良い影響を受ける同志を結び付けることにもSNSは威力を発揮する)。

私が最も懸念するのは、いまだに大企業悪論や中小企業弱者論を撒き散らして、知識不足の人々に対し、例えば「ものづくりの魅力で世の中を変えよう」と声高らかにものづくりを標榜しながら製造業にとって全く意味のないことを展開する存在だ(注:真のものづくりに真面目に取り組んでいる組織もちゃんとある)。

製造業を標榜しつつ、その実、目的はまったく別のところ(自己利益・自己顕示欲)にある場合があり、いかがなものかと眉をひそめている。社会的な評価や称賛を“強烈に”得られないと充足感を感じない人たちが、混沌とした世の中を利用して“人々から称賛されたいがためだけに全エネルギーを集中させている”こともあるわけで、この場合、仮に「製造業を支援する」等のもっともらしいことを並べても、目的は自己利益と自己顕示欲を満たすことなので、うっかりキレイごとに近づいたところ、物事が好転するどころか、“見返りを求められる”という悲惨な目に遭う可能性だってあるのだから、十分な見極めが必要なのだ。

商業臭漂う鍋の蓋を開けたらカラッポだった・・・なーんてことにならぬためにも洞察力を鍛えることも大切であろう。なんといっても真実は大抵、泥臭い些細なところに隠されているのだから。

今の時代はある意味、戦後に似ている。

考えてみると、焼け野が原の戦後の日本は、人々が生きていくために必要な最低限の栄養すら取れない状態だった。「老人がうるさいから若者は力が発揮できないんだ」とか、「若者は知識不足だから任せられないんだ」とか、そんな戯言を言っている余裕すらなかったはずだ。とにかく老若男女、誰もが絶望の中、必死に生きる術を模索していた。
お陰さまで今日も私たちは生きている。そう簡単に死にはしないことが分かるだろう。

地獄の底の扉を開けたとたん、思いがけないミラクルワールドが広がっているかもしれない。社会的評価が存在価値であるという考え方にもそろそろ限界がきているわけで、甘い言葉に惑わされず、そこに気付いてほしいし、気付いた人はどんな環境でも新しい道を創造し、切り拓いていけると感じている。

製造現場に“うわべだらけのカッコイイ”は必要ありません、と断言しておこう。
必要なのは生き抜く力であり、性別も年齢ももはや関係ないのだ。
みんなと違ったっていいじゃないか。
混沌とした世の中だからこそ、本当の己を見せてやれ! 

私は地獄の底の泥水を舐めた経験があるから特にそう思うのかもしれません。
周囲に影響されない自主的な人(企業)がたくさん出てくれば日本は変わるでしょうね。