困った人が大好きな困った人が求める「見返り」

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困った人が大好きな困った大人が最近増加しているようだ。
私も過去、この種の類いに悩まされたことがあるので、今ではすっかりこの類いに触れないように細心の注意を払っているのだが、潜在的にこの種は日本全国多く生息していると見られ、今日もどこかで弱者を探しているようにも感じる。この問題はなかなか根が深く、人間の複雑な心理が垣間見える。

さて、他人に自分を良く見せるために必要以上に必死になっている方を見かけることがある。もちろん、仕事をしていれば、ボロボロのクタクタでは相手に「この人、大丈夫かな?」と余計な心配をさせてしまうので、ある程度、見せかけは必要であり、状況によっては違う自分を演出することもあるだろう。

ところが、中には、他人に認めてもらうことに痛々しいほどエネルギーを集中させてしまう人がいる。他人に良く思われたいがために周囲を犠牲にし、心の充実を無視した人々。こういう人のほとんどはストレスを溜め込んでいるとみていい。そういうものをまとった人は周囲に居心地の悪さというか、違和感を与えるものだ。

もう昔話なので事例とするが、知人にXさんという人がいた。
「困っている人を見たら放っておけない」が口癖だった。

一見、聞こえが良いのだけれど、Xさんが不自然なのは、自分が幸せではないのにやたらと“人類愛”を説くことだ。身近なところに幸せを見つけられずに、他人に大きな幸せを与えると思っているところに違和感があった。

当時、人員不足で困っていた私にやたらと笑顔で近づいてきたXさん。人員不足といっても、一過性のものだったのでそんなに深刻な問題でもなく、「手伝ってあげる」というXさんの親切な言葉を断った。

だが、「少しだけ悩んでいる程度だ」と説明しても、「いいや、あなたは困っている。このままだと良くない」と言い張り、一歩も引かない。

「困っている人に対して親切にするのは当然じゃないか」

私は困った。なぜなら、Xさんがこのように、やたらと親切を口にする割には全く気配りのできない人だったからだ。夜中の11時過ぎに「困っていることはないですか」と電話をかけてきたり、夜中に突然、「困っていると思って」とアポなしでやって来くることもあった。

一見、“困っている人を助けたい”という謙虚な動機を示しているXさんだが、不純な下心が丸見えである。受け入れるわけにはいかない。しかももの凄く不潔な風貌で生理的に受け付けないタイプだったのでなおさらだ。ミミズのほうがまだ可愛い。
 
さて、困った人を見ていると放っておけないXさんは、ボランティア等の活動が好きだったが、心底本当に困っている人の深刻な要求を目の当たりにすると、理想と現実のギャップに耐えきれなくなり、「できない理由」を並べ、途中で投げ出してしまう癖があった。しかも相手が意見を述べるととたんに不機嫌になり、自分の思い通りにいかない苛立たしさを露わにする困ったちゃんなのだ。

「弱者を救うという崇高な行為をしている自分の言うことを周囲が聞くのは当然である」と本気で考えているフシがあり、Xさんは、それに対しての称賛という見返りを求めていたのだ。つまり、困っている人を助けたいという崇高な行為に隠された心の内は、強烈に「他人から称賛されたい、感謝されたい」という自己愛からくるものだった。

Xさんは、本業である職場環境も自分を取り巻く人間関係も不満だらけで、自分を愛してくれる人は身近におらず、自分も周囲を愛せない。求めていた生き方を送れておらず、悪いことの原因は全て世の中のせい。政治が悪い、会社が悪い、だからこんな日本になった・・・と繰り返し、目の前にある自分自身の問題を無視して、世の中を救おうとする。そんな人が弱った者を救えるわけがない。

困っている人を助けたい、人の役に立ちたいという気持ちは尊いものだが、この行為は社会的な成功そのものではない。親切の裏側にある“見返り”や“自己利益”をプ~ンと感じとると、人は感謝の気持など持てなくなる。

称賛されることは気持ちがいいものであり、これは正当な欲望だと思うが、称賛されたい気持ちが逸脱して強烈な場合、内面を見つめることが先だと思っている。なにもないから自信がない。だから他人に認めてもらうことが必要になる。人間愛というのは簡単でシンプル。見返りを求めるための手段として人間愛を出すのは良くない。