本当に日本の女性は生ぬるいのか

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セクハラヤジについて、その場で反論しなかったのはなぜか・・・という新たな議論が湧き上がっているようだ。女性都議の憤りが生ぬるい、ということだろうか。
ちょいと恥かしい経験を踏まえて書こうと思う。バツイチの子供なしだが、社会の波にもまれながら生きている女性の意見だと思って聞いてくれたらありがたい。

下品な暴言に慣れていない女性にとって、今回の件は、いきなり頬をぶたれたのと同じ。

わたしは若い頃、薄汚くてくたびれたオヤジ(上司)にいきなり胸を掴まれたことがあった。反論はおろか、「ひっ!」と言ったっきりだった。怖くて仕方なかった。家に帰って悔しくておいおい泣いた。こんな屈辱を受けたのにどうして反撃ができなかったのかと悔やんだ。当時は、いきなり不潔でくたびれて人生仕方なく生きているような、しかも父親くらいの年のオヤジがいきなり牙をむいて、うら若き女性のおっぱいを掴んだということは非日常的であり、ワケがわからなかったのだ。実際、本当に驚くと声も出ないものだと知った。(余談だが、後日、周囲に言いふらすという反撃に出たが、被害に遭ったこちらも恥をかいたという苦い記憶がある)。

また、人間というのは、不意打ちを食らうと、ヘラヘラと笑うこともある。これまた経験上の話だけれど、わたしは子供の頃から、ものすごく理不尽な目にあったときや緊張するとニヤニヤするので、よく叱られた。どうしてだか分からない。おそらく本能的なものだろうと思う。「これ以上攻めないで~」といったところか。

今では、笑顔は身を守るときの防御の一種なのかもしれないとも思っている。大人になってからも窮地に立たされるとニヤニヤするクセがあって、自分でもどうしたもんか、と呆れているくらいだ。

わたしの例は極端なニヤニヤの例だが、これは女性に限ったことではないと感じる。少しでもトラブルを避けたいと思うのは本能的なものであるからだ。

SNSを例に取ると、文字のみだけでは相手にぞんざいなイメージを与えてしまう場合もある。だから語尾に顔文字を入れたり、(笑)やwwwww などを入れたりと、柔らかいニュアンスを加えてカドが立たぬようにする方も多い。誰にも教わらなかったことだけれど、笑顔は相手からの攻撃をかわす防御みたいなものだ、と思ったのはこうした理由からだ。なので、本能的にビックリしたとき、一瞬だけ笑顔になってしまうのはすごく自然の反応ではないかと思った。

今回、女性都議が言葉の暴力という被害に遭われてしまったが、騒がないのも悪いともとれる意見は、たまたま虐めたい子がいたから虐めてみたけれど、「殴られたら文句を言わない方もどうかしている」という理屈に近いモノがある。問答無用で理不尽に殴る方が悪いに決まっているではないか。

女性都議の力量を問う声もあったが、その前に都議も人間である。この暴言はどんな強かで頑丈な精神の持ち主でも該当者であれば、一瞬怯むであろうと安易に想像がつく。公の場であるから、煮えたぎる怒りを正しく美しい日本語に変換するために、脳味噌がフル回転、感情を司る前頭葉がオーバーヒートしてしまい思考停止になっても不思議ではない。

例外としてわたしのような気が強い女性となると、「誰だ! 今言ったのは! 表に出やがれ! 」となり、機関銃のように悪い言葉をまくしたて、大騒ぎをする可能性があるでしょうけれど、現実的にはそういう女性は少ない。すぐさま反撃できるような性質が形成されるまでには、生まれつきの性格に加えて、社会に揉まれた時間がかかっているのだ。その場で品性の卑しい輩を相手にきつーい反論ができるまでになるには、それこそ、ある程度の人生経験が必要かもしれない。

ただし、不潔な中年に胸を鷲掴みにされるという恐ろしい経験をしたわたしが今、言えることは、このような経験はしなくても良い経験だったということ。「そこにおっぱいがあったから掴んだだけだ」と己を正当化するような輩をすでに時代は許さなくなった。

今回の「自分が結婚しろ」、「産めないのか」発言は、セクハラ発言、というカテゴリーのようだが、セクハラなんてもんじゃない。言葉の暴力だ。この件については、女性だけでなく、多くの男性からも怒りの声を聞くことができた。つまり、こうした発言そのものが許し難い問題である、という認識を多くの人々が示している。この暴言を吐いた議員は潔く名乗り出てもらいたい。

21世紀の日本にこのような公式な場において、暴言ヤジ議員がいて、周囲も嘲笑するといった風土がある限り、真の意味で女性が社会進出に結びつく政策を議論するのは難しいと感じる。上辺だけの「女性進出を!」なーんて、スローガンはいらない。進出そのものを阻害しているのは風土であることを忘れてはいけない。また、幸いなことに今の日本はグローバル化も進み、多くの人々がこういったことに気付いている。分からないのは一部の政治家だけであろう。

最も重要なことは、何度も何度もしつこく申し上げるが、多様化する世の中において、「性別や年齢を理由に個人の可能性を否定することのない世の中の仕組み作り」だ。「偏見に満ちたマジョリティが正しいという社会であってはならない」ということなのだ。