混沌とした世の中にホントの己を見せてやれ!

最近、物事の本質を見抜く大人が少ないと感じることが多い。
多数がそうだからといって、それが正論だとは限らないこともある。

人というのは多数の意見に流されやすい。流されているほうが楽だからだ。
特に主体性がない人は周囲に依存したくなる傾向があるように思う。おそらく依存していれば、うまくいかない自分を社会のせい、環境のせい、周囲のせいにすることができるので、「できない自分」を認めなくて済むからだろう。「仕事がないのは社会のせい」と言い切るほうが不甲斐ない自分から逃避できるし、傷つかなくて済む。

特に厳しい経営環境に置かれている方々にとっては、将来的に不安である。なんとかしなければ死活問題にかかわるわけで、いてもたってもいられない心情であろう。
自分(会社)の弱点を認めている方は、解決方法を模索し、友人や同じ志を持つ仲間たちの刺激を受けながら、次の展開を考えているのでここでは省くことにするけれど、問題は、できない自分を認めたがらない人々と、それらを巧みに利用する人々である。

できない自分を認めたがらない人は不安であるから誰かと迎合することで安心し、類は友を呼ぶ法則から同じようなタイプが自然と同調していく。人の集まるところには様々な人が興味を示すのも世の常であり、困った人たちを利用しようと近づく輩も現れる。

その場合、疑問に思うことは、目前にある抜本的な問題点をクリアする前に、世の中を変えようという突拍子もない動きに悪乗りすることだ。そんなエネルギーがあるなら、てめぇンとこの注文のひとつでも取るよう営業努力をするほうが先だと思うのだが、残念なことにそういう考えはないようだ。

中には自分の仕事に対し、「このご時世、やっても無駄」という投げやりな人もいたけれど、なぜ、やりもしないのに、無駄という妄想を抱くのだろうか。

自分の置かれた環境に不満がある場合、周囲を変えることに注力するよりも、まず、自分を変える努力をすべきであろう。そうするとおのずと自分を取り巻く環境も変わってくるというもの。そんなに嫌なら自分を取り巻く劣悪な環境を改善するためにも、ベクトルは世の中ではなく自分に向けたほうがいい。おそらく目の前のことができない人間が1万人集まっても世の中はなにも変わらない。一歩間違えなくても単なる烏合の衆だ。

最近はSNSの普及により仲間を簡単に集うこともできるが、迎合と協調は違う。
希薄な人間関係をいくら構築してもあまり意味がなく、人間関係は量より質であると感じている。利害を目的とした付き合いからスタートした場合は特に注意が必要で、いつの間にか他人の人脈や仕事を搾取することばかりを考えているズルイ人間に囲まれていたというのはよくある話だ。このように残念なことにならないためには、まず自立を恐れないことだと感じている。肝が据われば環境や周囲の影響を受けなくて済む。これを実行すれば、余計な人間関係に振り回されることなく、自分にとって良い影響を受ける人にだけ囲まれるようになる。誤解があるといけないので加えておくが、SNSが悪いといっているのではない(良い影響を受ける同志を結び付けることにもSNSは威力を発揮する)。

私が最も懸念するのは、いまだに大企業悪論や中小企業弱者論を撒き散らして、知識不足の人々に対し、例えば「ものづくりの魅力で世の中を変えよう」と声高らかにものづくりを標榜しながら製造業にとって全く意味のないことを展開する存在だ(注:真のものづくりに真面目に取り組んでいる組織もちゃんとある)。

製造業を標榜しつつ、その実、目的はまったく別のところ(自己利益・自己顕示欲)にある場合があり、いかがなものかと眉をひそめている。社会的な評価や称賛を“強烈に”得られないと充足感を感じない人たちが、混沌とした世の中を利用して“人々から称賛されたいがためだけに全エネルギーを集中させている”こともあるわけで、この場合、仮に「製造業を支援する」等のもっともらしいことを並べても、目的は自己利益と自己顕示欲を満たすことなので、うっかりキレイごとに近づいたところ、物事が好転するどころか、“見返りを求められる”という悲惨な目に遭う可能性だってあるのだから、十分な見極めが必要なのだ。

商業臭漂う鍋の蓋を開けたらカラッポだった・・・なーんてことにならぬためにも洞察力を鍛えることも大切であろう。なんといっても真実は大抵、泥臭い些細なところに隠されているのだから。

今の時代はある意味、戦後に似ている。

考えてみると、焼け野が原の戦後の日本は、人々が生きていくために必要な最低限の栄養すら取れない状態だった。「老人がうるさいから若者は力が発揮できないんだ」とか、「若者は知識不足だから任せられないんだ」とか、そんな戯言を言っている余裕すらなかったはずだ。とにかく老若男女、誰もが絶望の中、必死に生きる術を模索していた。
お陰さまで今日も私たちは生きている。そう簡単に死にはしないことが分かるだろう。

地獄の底の扉を開けたとたん、思いがけないミラクルワールドが広がっているかもしれない。社会的評価が存在価値であるという考え方にもそろそろ限界がきているわけで、甘い言葉に惑わされず、そこに気付いてほしいし、気付いた人はどんな環境でも新しい道を創造し、切り拓いていけると感じている。

製造現場に“うわべだらけのカッコイイ”は必要ありません、と断言しておこう。
必要なのは生き抜く力であり、性別も年齢ももはや関係ないのだ。
みんなと違ったっていいじゃないか。
混沌とした世の中だからこそ、本当の己を見せてやれ! 

私は地獄の底の泥水を舐めた経験があるから特にそう思うのかもしれません。
周囲に影響されない自主的な人(企業)がたくさん出てくれば日本は変わるでしょうね。

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