次の100年へ向かって世界基準のものづくりを ~三井精機工業が創業90周年記念式典を開く~

 産業の基幹となるマザーマシンの工作機械と動力源の空気圧縮機を産業界に供給することを通じて社会に貢献する――が理念の三井精機工業(社長=奥田哲司氏)が、去る12月13日、東京都中央区のマンダリンオリエンタル東京で創業90周年記念式典を開いた。

 三井精機工業の歴史や90周年記念式典の様子を掲載する。

三井精機工業90年の歴史

会場内では三井精機工業90年の歴史が流れた
会場内では三井精機工業90年の歴史が流れた
 同社の歴史は、1928年12月29日、(株)津上製作所として創立したところから始まる。当時は外国に依存していた工作機だが、三井精機は1930年にブロックゲージの国産化に成功し、その後1934年に本社および工場を移転、現在同社の主力製品となる高圧コンプレッサの生産を開始する。1937年には称号を東洋精機(株)と変更。1937年に日本初の工作機械製造許可会社(6社の中の1社)となり、国内初の4型ジグ中ぐり盤、ジグボーラーの生産を開始。以来、ジグ中ぐり盤はマザーマシンの代名詞となった。

 1942年には、三井工作機(株)を合併し、商号を三井精機工業(株)と変更。このとき、三井本社より“三井直系会社”としての指定を受け、翌年には広大な桶川工場が完成した。以来、体制強化を図りながら生産拠点の拡充と企業改革を行い、現在の礎を築いた。

 同社の歴史の中でも注目したいのが、自動車生産だ。転換業務としてオート三輪車の生産を開始し、1946年には初代“オリエント号”が完成。販売を開始するとたちまち人気車となった。その後、小型四輪トラックの生産を開始し、2000年に至るまで自動車王国日本の先駆けとして同社の技術はモータリゼーションの一時代を支え、多大な貢献をしてきた。

 そして、精密工作機械とコンプレッサの2つの事業化――。同社の大きな柱でもある世界の最先端分野を支える工作機械は、1957年、フランス国営ルノー公団と専用工作機械、トランスファーマシンの技術提携を開始している。1962年にはスイスのブルーダラー社と精密高速プレスの技術提携を行い、技術革新を遂げていった。

 工作機械の分野では、自動運転の研究が始まった。従来から研究を重ねていた同社は、1959年、数値制御ジグ中ぐり盤「JidicH」を完成させた。これが今日の5軸加工機に繋がる技術として大きく広がっていく。1963年には、米国のエキセロ社のねじ研削盤に関する技術提携を行い、これが同社製品の精度の進化へと継承され、1970年には同社初のマシニングセンタの生産を開始。そして、1983年、立形マシニングセンタ「VR3A」が登場する。このマシンは、第13回機械工業デザイン賞 通商産業大臣賞(グランプリ)を受賞している。

 5軸加工機の分野では、トップクラスの技術と実績を誇る同社。1986年には、加工の世界で難しいとされる仕事に挑み、5軸マシニングセンタ「HS5A-5X」の1号機を完成させた。

 2003年には豊田工機(株)[現(株)ジェイテクト]と包括的業務提携、この年、高能率加工用のスクリュー重研削機の開発を実現した。2006年には改良され進化した5軸立形マシニングセンタ「Vertex550-5X」が誕生。2008年の「JIMTOF2008」では世界最大級の5軸機動テーブルを展示し、来場者を驚かせた。

 同社が培ってきたもう一つの柱であるエアコンプレッサに目を向けると、1972年に独自の空気圧縮機「Z-SCREW」コンプレッサの生産を開始。1982年には業界初の水潤滑オイルフリーコンプレッサ「ZUシリーズ」の生産を始める。以来、スクロール式コンプレッサ「ZSシリーズ」、「インバータシリーズ」、「ZV」など、新たなラインナップを生み出している。

 2006年には、水潤滑オイルフリーインバータコンプレッサ「i-14000シリーズ」が登場し、2015年、高効率モータ搭載のインバータコンプレッサ「Zgaiard Xシリーズ」が誕生。翌年にはステンレスロータ水潤滑オイルフリーインバータコンプレッサ「i-14000Xシリーズ」が誕生する。こうして同社のコンプレッサは、時代のニーズに合わせて進化していった。

 同社では、産業の発展と地球環境保全、その両立を目指すことは、これからの企業の課題であると捉えており、その象徴として、各種製品は豊かな自然環境の中で造られている。1981年、桶川工場を埼玉県比企郡川島町に移転し、川島工場と改称、本社工場として生産拠点を集約した。2010年には営業拠点機能を本社工場に集約し、より連携を強化し、新たな高品質マシンを生み出している。

 創業当時から培われてきた三井精機のDNAを受け継ぎながら、最先端技術を結集し、次の100年へ向かって世界基準のものづくりを続けていくとしている。

今まで以上に産業界の発展に貢献したい

あいさつをする奥田社長
あいさつをする奥田社長
 記念式典の中であいさつに立った奥田社長は、「弊社は1928年12月29日に精密機械測定具の国産化を図るため、津上製作所として当時の東京府荏原郡雑色町、現在では東京都大田区南六郷で創業した。ちなみにディズニーのミッキーマウスも同年の誕生とのこと。翌年から海軍からねじやゲージの注文を受け、海軍の指定工場となった。昭和5年1月にはブロックゲージの国産化を始め、昭和8年には海軍から魚雷部品の生産を命じられ、当社は軍事産業の一角を担うことになった。その後、三井グループの出資を受け、昭和9年には潜水艦用の高圧圧縮機の生産も開始をしている。昭和12年2月には、商号を東洋精機株式会社と変更し、ジグ中ぐり盤の製造を開始した。昭和17年に、社名を現在の三井精機工業としたが、戦後の財閥解体に伴い、一時、三井の商号は手放し、東洋精機工業に社名を戻したが、昭和27年には商号を三井精機工業にまた戻した。戦後、昭和22年よりオート三輪の生産を開始し、車名を東洋精機の名称にちなんでオリエント号とし、国内販売のみならず東南アジアにも輸出した。また、日野自動車との提携により、日野ハスラーとして販売をした。さらに昭和36年から、小型トラック“ブリスカ”の生産。昭和41年からは、中型トラック“レンジャー”の受託生産を行ったが、平成12年には弊社での生産を終了している。それ以降は、工作機械事業とコンプレッサ事業に経営資源を集中した。」と長年の歴史に触れた。

 続けて、「工作機械では、昭和45年10月に、弊社初の高性能マシニングセンタ『JidicH5B』、『JidicH6B』の生産を開始し、コンプレッサもこの頃、弊社独自のZスクリュー式のコンプレッサの生産を始めた。平成15年には、豊田工機、現在のジェイテクトと包括的業務提携を結んでおり、その後、工作機械では立形5軸『Vertexシリーズ』など、コンプレッサではオイルフリーインバーターコンプレッサ『i-14000シリーズ』などを開発・販売してきた。なお、本年は高精度ねじ研削盤『GSH200A』を開発し、JIMTOF2018の会場で発表した。」と主力製品について述べた。

 奥田社長は、90年の歴史を振り返り、「創業の翌年には世界大恐慌、戦中戦後の混乱、オイルショック、ドルショック、バブル経済の崩壊、そしてリーマンショックと、さまざまな荒波があった。その荒波を乗り越え、90周年を迎えられたのは、本日ご臨席の皆様のご支援のたまものと心より感謝している。そして、工作機械などの鋳物の材料開発など、ゼロから取り組んだ先人の努力も忘れてはならないと思っている。今後も社員一同、一層の努力で、ご期待にお答えし、今まで以上に産業界の発展に貢献する所存である。」と感謝の意を表した。

グローバル企業として確固たる評価を確立

 来賓を代表して、4名があいさつをした。

宮田 三井住友銀行会長
宮田 三井住友銀行会長
 宮田孝一 三井住友銀行会長が、「創業後、三井グループの一社として事業を伸ばしてこられ、この90年を振り返ると、第2次世界大戦の後の財閥の解体、あるいはオイルショック、リーマンショック、様々な数多くの難局があったが、これらを見事に乗り越え、発展を続けられて、本日を迎えられた。三井精機工業と私どもとの付き合いを振り返ると、1934年以降、84年間にわたり、一緒に歴史を刻んできたことを嬉しく思う。三井精機工業はモノづくりの根幹となる工作機械、そして産業機械事業に欠かせないコンプレッサを製造しているが、工作機械は、わが国はもちろん世界でもその評価は高く、精度、信頼性に優れることから、特に厳しい品質が求められる航空機産業において、プラット・アンド・ホイットニー、あるいはゼネラルエレクトリック社といった企業のジェットエンジンの製造に採用されているなど、グローバル企業としての確固たる評価を確立している。また、コンプレッサでは、寿命が長い、騒音が出ない、振動が小さいなどを実現し、極めて高い評価を受けている。これらは、熟練した社員の匠の技によってもたらされるものと伺っている。この技は、90年という長い歴史の中で育まれ、伝承され、そして磨き上げられたものであり、これらの高い技術を生かして、他にない良い製品、良いサービスを世界に提供していかれることで、引き続き成長を続けられ、ひいてはわが国のモノづくりに対する信頼、評価、これを高めていかれるものと思っている。」と期待を込めた。

記憶に残る営業努力

寺町 THK社長
寺町 THK社長
 寺町彰博 THK社長が、「THK製品を造るための主力の機械を造られており、既に1,500台近く私どもの工場で稼働している。まさになくてはならない機械だ。私がTHKに入社したときには、まだ製造部門40名ほどの工場だったが、ロボットシリンダーを生産し、ねじを使ったシリンダーだったために、三井精機工業の立派なねじ研が鎮座し、驚いたことを覚えている。それ以来、私どもの成長に伴い、機械を買う機会が増えていくのだが、1978年になると、ボールねじが増え、また当時のTHKは、ガイドとペアでボールねじを他社のものを売っており、これが全然間に合わないという状況になった。そこで、私どもも、これやろう! ということになり、ねじ研を多量に購入した。1979年にはガイド関係を同時研削で行いたいという希望もあり、様々なメーカーに話を持っていったが、その都度、出来ないと断られていたところ、三井精機が引き受けてくれた。その当時、後で聞きいたところ、ワンロット10台だ、とのこと。専用機を造る代わりに、10台発注しなければならない。当時の先代も勇気を持って、その10台を引き受け、これが縁となって現在に至っている。そして、本当に切っては切れぬ仲になった。それ以上に私自身非常に印象に残っていることがある。三井精機のある営業マンが、夜討ち朝駆けで先代の社長であった私の父のところへ来る。一緒に住んでいたので外見に見てもすごいなと感心したのは、朝早く来て待っていて、うちの父をキャッチし、そして夜になると夜にキャッチ、そして応接間へ入って2時間ほど話をしている。やはり、これが一つの営業なのかということを勉強させてもらった。最近では働き方改革もあり、自主的にそういうことが行われにくくなったが、当時、こういう営業の方がおられて、この縁もできたのかなと、感じている。私どもにとっても引き続き、切っては切れない大事なメーカーである。」と声援を送った。

新しい技術へのチャレンジ精神が三井精機工業のバックボーン

稲葉 ファナック会長兼CEO
稲葉 ファナック会長兼CEO
 稲葉善治ファナック会長兼CEOが、「この90年を振り返ると、日本が第2次世界大戦という大きな戦争による混乱を経験し、その敗戦から立ち直ってからは、神武景気、いざなぎ景気、鍋底景気、岩戸景気など、好況、不況を繰り返し、またその中で力強く復興を果たし、高度成長期を迎えた。その後、第1次石油ショック、バブル経済の崩壊、リーマンショックなどに襲われるなど、まさに日本が世界に挑戦し、敗北し、そしてまた再生を果たした激動の90年だった。このような激動の時代の中で、三井精機工業はブロックゲージの国産化、高圧圧縮機の製造からビジネスをスタートされ、国産初のジグ中ぐり盤を開発。戦後はオート三輪をはじめとした小型トラックの製造も手掛けられた。ここで培われた技術で、自動車部品用に加工精度と量産性に優れた専用機やトランスファーマシンなどを次々に開発され、世の中に送り出された。創業当時から、高精度加工に対する旺盛な探究心と、新しい技術へのチャレンジ精神は、まさに三井精機工業のバックボーンとして今でも脈々と受け継がれ、1970年代には高精度マシニングセンタを開発された。三井精機工業のこうしたチャレンジに多少なりとも貢献できたことは、私どもにとっても大きな喜びとなっている。また、1990年代になると、複雑な形状で、かつ高精度な加工を必要とする航空機部品用として、同時5軸加工機の開発という新たな挑戦に着手された。当時、国内の工作機械業界では、まだ同時5軸加工機は一般的ではなく、海外の先駆者たちが競争相手という、非常に厳しい条件の闘いだった。航空機業界からの高精度な5軸加工の要求に対し、真摯に向き合われ、これらのニーズを徹底的に研究し、海外メーカーに遜色のない同時5軸加工機の開発に成功された。この結果、この分野からの信頼を勝ち取られ、御社の同時5軸加工機は、世界の航空機メーカーをはじめ、多くの顧客の加工工程の中枢部で活躍されている。このような素晴らしい成果は、これまでの経営陣の方々と奥田社長をはじめ現在の役員、社員の皆さま方の並々ならぬ努力とご研さんのたまものである。昨今、金属加工は大きな変革機を迎えており、世界中の工作機械業界において、IoT技術、ディープラーニングを駆使したAI技術、またアディティブマニュファクチャリングなど、新しい技術を加工機に取り込む開発が積極的に進められているが、こうした状況の中で、三井精機工業が新しい技術に積極的に取り組んでおられ、誠に心強い限りである。」と述べた。

築き上げた信頼の絆

長尾 山善社長
長尾 山善社長
 長尾雄次 山善社長が、「三井精機工業と私どもとの取引は、1970年頃から始り、約半世紀の長きにわたり、精密工作機械とコンプレッサの販売をさせていただいた。弊社の生産財ドメイン事業にとりましては、なくてはならない最主力の仕入先メーカーである。私ども販売商社は、メーカーが懸命に開発し、丹精を込めて造られた大事な製品を、その技術や開発意図、またその強い思いをお客さまにしっかりと伝え、提案をして、大切に販売させていただくことが大きな役割である。販売は、売る側も買う側も、常に人が相手であり、人間が相手だけに、こうしたら売れるという方程式はない。AIもIoTも、これを使いこなすのは人である。また、人の能力は無限である。物やお金は化けないが、人は時として大化けをする。本日は90周年をお祝いするとともに、次の創業100周年に向けた新たな船出、いわば決起大会でもあろうと思うので、ここで北斎の天才的感性を模して言葉に換えると、それは、富士山はしっかりとした裾野があるから頂上が美しく見える、という。つまり、三井精機工業を取り巻く本日ご列席の協力会社の皆さまをはじめとした、社内外の人々とのしっかりとした絆、信頼のネットワークをさらに強固に、足元を盤石にし、それがしっかりとした裾野であると言い換えたならば、目指すところの創業100周年という、さらに美しい頂上が見えてくるのではないか。これまで築き上げてきた信頼の絆を、さらに強くさせていただき、造る側と売る側の役割と責任をしっかりと果たしながら、相互発展を目指していきたい。」とあいさつをした。

 乾杯の発声は、篠原 修 三井物産マシンテック社長が行った。阿川泰子さんのジャズライブコンサートで会場内は大いに盛り上がった。宴もたけなわのころ、河邉誠造 三井精機工業専務の中締めで散会した。

 

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