独立時計師 浅岡 肇 氏の製造現場を拝見! ~工作機械が洒落て見える不思議空間~
2009年に日本で初めて難易度の高いトゥールビヨン機構を搭載した超高級機械式腕時計を発表し、世界中に大きなインパクトを与えた独立時計師 浅岡 肇氏。過去には広告や雑誌の世界でも手腕を発揮し、その個性的な発想は創造性に富んだ時計製作にも表れている。世界でたった29人しか存在しない独立時計師で構成された独立時計師アカデミーの正会員でもある浅岡氏が設計、加工、組み立てまでの全工程を手がけている希少性の高い時計の数々はもはや美術品。精度の高さと美しさを兼ね備えた時計として世界中から高い評価を博しておりファンの心を掴んで離さない。
浅岡氏は昨年、作業現場(アトリエ)を都内に増設し、新たに工作機械を導入した。世界中のファンを魅了するラグジュアリーな超高級腕時計の製作現場を見学するとともに、製造業界への思いを語って頂いた。
計算された怪しい雰囲気の中に佇む「ロボドリル」
東京都文京区にある建物の地下を降りると重たそうなドアに東京時計精密株式会社の屋号があった。どことなく人の侵入を拒む雰囲気が漂っている。ドアをノックすると、扉が開いた。一歩足を踏み込めば、1970年代の映画に出てくるマフィアのアジトのような世界が広がった。身も蓋もない表現をすれば、時計を製作しているというよりも、どこか健全ではないものを生産しているようにも見える。だが、映画に出てくる悪者の事務所と決定的に違う点があった。それは、清潔なことと洗練されたインテリアの数々、そして計算されたライティングによって照らし出された空間の中には、怪しく光るファナックの「ロボドリル」が置かれていることだ。
浅岡氏が手がける超高級時計「CHORONOGRAPH」 の中はこんなに複雑。非常識なほど微細な部品が幾重にも重なるが、時計に厚みを持たせないことは非常に難しい。
浅岡 精密な加工をすると熱変位がシビアです。高級機械は熱変位をアクティブに押さえ込む仕組みがあります。ロボドリルは高級マシンではないのですが、その分、自分で熱変位が補正も予想もしやすい。挙動が素直だから対応しやすいのです。価格も手頃だったので決めました。加工のポイントは機械の温度を一定に保つこと。それさえきちんとしていれば、特別なことがなくても非常に高精度な加工ができます。
―熱対策はどうされていますか。
浅岡 自分で機械の5カ所に温度計を付け、目視で確認するようにしています。加工は±数ミクロン以内に命中させなければなりませんから、温度計の挙動を±1℃未満にするための管理をしています。
―時計の部品には細かい穴がたくさんありますから加工も大変そうですね。
浅岡 これが巷の精密部品加工屋さんに依頼したとします。例えば図面に誤差±5ミクロンの指示があると、これをコンスタントに出すには非常にやっかいなわけですが、僕の場合は、自分で設計して自分で加工をしますから、やみくもに「全部±5ミクロンじゃなければ駄目ですよ」、と言わないで済んでいます(笑)。位置決めや軸受けの穴のピッチが正確ならば問題ありません。
―なかなか難しいことだと思います。
浅岡 これらの穴を短時間で同時に開ければ、その間の熱変異は少ないわけですから、誤差は取り除けます。殆どの穴は径に関わらず同じ工具でヘリカル加工します。加工条件が同じなので、その間の温度変化も±0.1℃レベルが達成でき、精密なピッチで加工されるので高精度な穴開け加工が実現できるのです。
―超高級機械式時計は年に何本作られていますか。
浅岡 現在、同時に16本作っています。
―時計作りで一番苦しむ作業はどんなところですか。
浅岡 例えば、時計の中で一番精度が要求される振り子の部品ですが、これを綺麗に磨く作業があります。当然、磨くと3ミクロンほど目減りする。振り子が3ミクロンほどでも目減りすると、それだけで一気に時間が狂ってしまいます。なので、磨いた後に厚みが均一になっていなければいけません。1日は8万6400秒ですから、この振り子の厚みが数ミクロンほどズレるだけで、時間の誤差が何分にもなってしまう。そのくらい振り子が往復するメカニズムを作ることは大変なことなのです。
―ものすごく緻密な作業ですね。
浅岡 時間を正確に追い込んでいく作業のことをチューニングといいますが、その作業はすでに美観上の仕上げを終わった状態で行います。美観上の仕上げが終わった状態というのは、表面をピカピカに磨いてあるので、それに一切傷を付けずにその作業を行わなければならず、非常に苦しい作業です。見た目に傷を付けたらお客様からクレームが来ます。外観を完璧に磨き上げ、精度も完璧に合わせ込むという、この両方が高度に要求されているところが時計作りの難しいところです。
相手に期待感を与えることは重要
―工作機械すらインテリアに見える加工現場に浅岡さんのこだわりが見えます。
浅岡 デザイン事務所のインテリアは、雑誌やネットメディアで拝見すると、大概、真っ白い空間でモノが少ないイメージです。見事に皆さん、無菌室のように真っ白でモノがない。僕が発注する側だったら、そういうデザイン事務所って、言っちゃ悪いのですが底が知れていると思ってしまう。どんなワクワクしたものが出てくるんだろう、という期待値がものすごく低い。例えば、「デザイナー 腕時計」で検索して画像を出すと、まあ見事にこれが全て1人の作家が作ったんじゃないか、というくらい同じような時計がたくさん出てきますから(笑)。
―ご自身の感性と技術で世を唸らせる浅岡さんにとっては、仕事場も自分を表すものなのかもしれませんね。
浅岡 僕の空間は単純に自分の好きな世界。ロボドリルや昔の汎用旋盤もあったり、ゴージャスなソファもあったり、簡単に手に入る安価なものが置いてあったり・・・。バラバラで統一感のないものをきちんと統一させるというのは案外高度なテクニックなのです。モノを少なくして、白い空間で、気取った家具を配置して、お洒落でしょ、っていうのは、誰でもできること。ここは僕の時計に対して期待をするお客様が来られる場所です。たまには世界富豪のトップ10入りを果たすほど浮世離れをしたお金持ちも来られます。そういう人たちに、いかにして非日常性を与えるか、となると、お金をかけました、というだけでは印象にも残らない。インテリアに1兆円かけました、というなら話は別ですが、それでもお金の力によってお客様を関心させることはできないのです。
―相手に期待感を持たせるための工夫があるのですね。
浅岡 相手に、ちょっと変なところに来たな・・・と思わせることを狙っています。言い方が難しいのですが、合法的ではない怪しいものを袋詰めしているようなイメージ。僕のところへ来られるお客様は、意外性や非日常というインパクトを与えないと、楽しんでもらえませんから(笑)
価格競争から脱却を!
―現在、日本の製造業は熾烈な国際競争にさらされていますが、浅岡さんから見て感じることはありますか。
浅岡 新興国の追い上げが激しさを増し、日本の製造業が疲弊していますが、この原因は価格競争にあると思っています。今こそ、日本は新興国との価格バトルからいかに脱却するか、を真剣に考える時に来ているのではないでしょうか。ここを改善すれば日本の製造業は好転すると思います。僕のしていることは価格競争が完全にない世界です。いかに価格競争から逃れるか、というスタンスです。安いでしょうお得でしょう、というモノの売り方は絶対にしない。物理的な相場観からいうと時計はものすごく高いのですが、売れるための魅力をきちんと付けています。結局、価格競争をしている商品たちというのは、その部分のストーリーがない。完全に抜けているのです。本来、輝かしき日本のプロダクトたちにはストーリーがあった。いつしか中国と価格バトルをする中で、そのストーリーが失われてしまったのです。だから、昔に戻れとは言いませんが、いい加減、目を覚まして中国と価格バトルをするのはやめた方が良いと感じています。
―確かに家電量販店では似たような製品が溢れており、どれもこれも今ひとつパンチに欠けている気がします。
浅岡 似たようなモノを作って同じ市場でパイの奪い合いをすると、結局価格で競争するしかなくなります。しかし、実際の市場というのは、平均値のニーズではありません。様々なニッチの集まりなのです。そんなニッチの集まりを、メーカーさんたちは勝手に平均的なニーズに慣らしてして見ているから、同じような価格の似たような製品を売らなければならなくなるのです。実際は細かいニッチなニーズがあるはずです。100社あったら100通りの商品を作っても良いはずで、それぞれに市場があると見ています。売れるか売れないか分からないモノを作りたがらないのも分からないではないですが、リスクを取らなさ過ぎにも見えます。
―ここはひとつ日本のメーカーにも勇気を出して欲しいところですね。
浅岡 たとえばダイソンの掃除機はゴミが丸見えになっていますよね。一般的には隠したいゴミが丸見えになっている、という大胆な設計でありながら売れています。リスクをとる意気地がないのだとすると、とても残念な気持ちになります。
時計芸術の巨匠でも苦悩する
―「THE MASTERS OF ART HOROLOGY」(時計芸術の巨匠たち)では、浅岡さんがトップに掲載されており、同じ日本人として誇らしい気持ちになります。浅岡 独立時計師と認められている人は世界でもごく僅かで、この書籍に掲載されているのはその中のトップの人たちです。僕以外は全員ヨーロッパ人です。
―最近は独立時計師を目指す方も増えている気がします。そう簡単にはなれないのだとは思いますが、その中でアドバイスをするとしたらどんな点でしょうか。
浅岡 最近、僕のような仕事をしたいと思っている方がチラホラいらっしゃいますが、自分で作ることが目的化していたり、単に憧れの対象としてみているだけなど、時計作りの大変な部分を少し甘く見えるな、とは思います。単にものづくりが好きなだけで、時計を作ろうとしても目標が曖昧だと挫折します。かなり勉強熱心な経歴の持ち主に時計の作り方について指導したこともありましたが、「もう、時計作りは無理です。諦めました。」と挫折のメールが来たこともありました。
―そのときはどう返答されましたか。
浅岡 そんなことは一流の時計師だってみんな毎日のように思っているんだよって(笑)。失敗して途方に暮れるということを味わっている。だから、「それは日常のことだという前提のもとで時計作りに向き合わない限りは話になりません。」というような返答をしました。現在、独立時計師の最重鎮とされているフィリップ・デュフォーさんでさえ、作業中に失敗をして大切な部品を壊してしまうことがあるのです。時計の部品は積み上げの上に成り立っていますから、ちょっとしたミスでもお釈迦になってしまう。10日かかった仕事だとしても、一瞬でチャラになるわけです。世間の仕事ならば、ささいな傷ならリカバリーできるかもしれませんが、この仕事はリカバリーができません。たとえミスをしてボツになったとしても、次に作る部品で取り返すことをモチベーションとして捉えるメンタルが必要です。その傷、そのダメージは、「レベルの高いモノを作り直す機会を与えてくれた。」くらいの前向きさがなければ、本当に挫折をして心が折れてしまいます。
―打たれ強さも必要だということですね。
浅岡 心を折らないように、自分のメンタルをいかにコントロールするかというのが時計作りの中では一番大切なことです。独立時計師は皆さん、毎日のように心が折れていると思います。だから、「THE MASTERS OF ART HOROLOGY」に掲載されているような方たちは、時計作りについて、異口同音に「一番必要なスキルは忍耐力だ。」と言っていますが、それに尽きます。
―ありがとうございました。