黒田精工 最高顧問 黒田彰一氏 「偲ぶ会」開く

210924黒田彰一様

 黒田精工の最高顧問 元代表取締役会長を務め、令和2年9月30日に96歳で亡くなった黒田彰一氏の偲ぶ会が、9月6日、東京都千代田区の帝国ホテルで開かれた。親交のあった多くの業界関係者などが参列し、遺影に献花をして故人との別れを惜しんだ。偲ぶ会は、新型コロナウイルス対策で参列者が集中しないよう配慮がなされ、あいさつの言葉や弔辞の読み上げは行わず、参列者への礼状につづられた。

 黒田氏は、大正13年に東京で生まれ。昭和18年に黒田挾範製作所(現黒田精工)創業者の急逝に伴い学生で社長に就任した。また、日本金型工業会会長、アジア金型工業会連合会(FADMA)会長、名誉会長、国際金型協会(現ISTMA/旧ISTA)会長など、約80年もの間、仕事一筋、業界の発展に尽力してきた。これらの功績がたたえられ、昭和62年に藍綬褒章、平成7年には勲四等瑞宝章を受章した。

 会場内には黒田氏の映像とともに学生時代や仕事に邁進する姿に加え、家族とプライベートを過ごす様子などが写されたパネルが展示され、参列者は懐かしみながら故人をしのんだ。

あいさつ 黒田精工 代表取締役社長 黒田浩史

 故人は、弊社創業者黒田三郎の急性に伴い学生の立場で社長に就任して以来、80年近くにわたって仕事一筋の人生を送ってきました。第二次世界大戦で存亡の危機に陥った会社を再建し、祖業であるゲージの技術を活かした新規事業を次々と開拓し、上場企業として成長させ、オイルショック等の荒波を乗り越え、晩年は更新の育成に情熱を燃やしておりました。社外においても、各種ゲージの規格作りや、工業会、技術振興財団等の活動や団体の設立等を通じて日本のみならず世界の産業界の発展のために尽力してまいりました。訃報に接して国内外の知人の方々からお寄せ頂いた温かいメッセージを拝見して、故人の足跡の大きさとその国際的広がりを改めて実感した次第です。

 仕事が趣味のような人生でしたが、読書や絵画鑑賞を好み、その知的関心の広がりと博覧強記ぶりには驚かされました。ゴルフや俳句、以後、謡、旅行、そして美味しいものとお酒も大好きでした。

 想い出は尽きませんが、故人が残してくれた精密なものづくりに対する真摯で誠実な姿勢とクロダブランドの信用をしっかりと受け継ぎ、社員一同世界の産業の発展のために邁進していくという決意を新たにしております。

 ここに故人が生前に皆様から賜りました数々のご厚情に対しまして、心から御礼申し上げます。長年にわたり本当にありがとうございました。

追悼の言葉 ファナック 代表取締役会長 稲葉善治

 黒田最高顧問と小生の父、稲葉清右衛門とのお付き合いは、二人が東京帝国大学第二工学部造兵学科の学生であった頃から始まり、二人が亡くなるまで公私にわたる親しいお付き合いが続きました。そのご縁で小生も黒田最高顧問には子どもの頃から可愛がっていただき、何時もにこやかで聡明な最高顧問はあこがれの存在でした。

 黒田最高顧問は都会的センスに溢れた知的な美青年、一方、稲葉は田舎出身の泥臭い頑固者。この二人がどうして意気投合したのか、運命の妙とは正に計り知れないものであるとつくづくと感じます。

 二人はお互いに生き残った方が弔辞を読もうという約束を交わしていましたが、奇しくも殆ど同時期に入院し、2020年9月30日にご逝去された黒田最高顧問の後を追うように3日後の10月2日に稲葉もこの世を去りました。余人には理解出来ぬ強い絆がそうさせたのでしょうか。今頃、二人は天国で再会し、技術者としての見果てぬ夢を語り合っている事だろうと思います。合唱。

 仕事では、稲葉は富士通で日本初のNC制御装置のサーボ装置として油圧パルスモータを発明しましたが、そこで使われる四方案内弁で使用されるバルブは当時の加工技術では製作が難しく、ブロックゲージを製造していた黒田挾範の社長をされていた黒田最高顧問にお願いをして作っていただき、ファナックがNCの分野で大躍進をする原動力となりました。

追悼の言葉 東京大学 名誉教授 中川威雄

 黒田彰一氏は東京大学の同窓の大先輩であり、私の金型研究のきっかけを与えてくださった師でもあった。また、大学同窓のファナックの創業者の故稲葉名誉会長をご紹介していただいたのも黒田さんであった。紳士然とした風貌と達者な弁からは、金型産業界とはちぐはぐなように感じたのは最初だけで、業界を独自の視点で正しく冷静に見て応援されている姿にいつも感銘を受けていた。

 私が「型技術協会」を設立し、「型技術」誌を発刊するときも、陰ながら工業会を説得して下さったのは有難かった。金型産業界というライバル企業同士の工業界、一匹オオカミや独自技術に誇りを持つ経営者集団を、世界でも稀なほど旨くまとめて来られたのは、まさに黒田彰一氏の人徳とグローバルの産業感覚のなせる業ではなかったかと思う。とにかく、世界的な視野で日本の製造業の強さと問題点を見ておられ、その卓見にはいつも感銘させられることが多かった。後年、世界の金型産業界のトップリーダとなられたのも当然で、今ではもう二度とこのような〝モノづくりのわかる賢人〟は現れないのではと想う日々である。

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