大津市生徒暴行隠ぺい事件にみる教師の罪とトラウマ
あまりにも衝撃的な事件であり、専門外だが思わず書かずにはいられなくなってしまった。
ニュースではイジメとなっているけれど、明らかに“暴行・隠ぺい”事件であり、この問題については、おそらく日本中が怒りに燃えていると感じている。
“マトモな学校生活”であれば児童たちは「集団で時間を共有することは我慢も必要である」ということを知る。学校は個性の集まりでもあるから、元気のよい子も、乱暴な子も、恥ずかしがり屋な子も、おとなしい子も、教えを守りながら協調性を学んでいく。
もちろん、ちょっとしたイジメに近いこともあろう。学校生活は、他人に不愉快な思いをさせることはイケナイことだということや、多少イジメられても対応できる精神力を鍛える・・・といった情緒教育に必要な時期・課程でもある。
そうして悪いことをしたら反省をして罪を償うことを学んでいく。
この大津市暴力・隠ぺい事件で、生徒の心の叫びを無視した教師をニュースで拝見し、私は小学6年生の頃を思い出した。絶対に忘れることはできないトラウマがある。
ここで書くのもおぞましい出来事だが、あえて書くことにしよう。
このような問題は表面化しないだけで全国的に昔から隠されていると睨んでいる。
教育の現場では問題が山積みされている。とくに地方に行けばその傾向は強く、重大な問題があっても地域ぐるみで事実を捻じ曲げ隠ぺいし、問題は表に出ないことが多い。
私が小学6年生のころ、ヤマゴン(仮名)という男の子がいた。ヤマゴンはいじめられっ子だった。難癖をつけられては、いつも誰かに蹴られたり殴られたりしていた。ヤマゴンは静かな男の子で、たまに泣いたりしていたけれど、ほとんど下を向いて我慢をしていた。
ある日、いつものようにヤマゴンはイジメにあっていた。それを見ていた担任は「ダメじゃないか」といじめっ子に注意をし、1時間ほどクラス全員で話し合う時間を設けた。
話し合いは進んだ。当然のごとく、ヤマゴンは「自分は何もしていないのだから殴らないで欲しい」と訴えた。先生は暴行を加えたいじめっ子に、「なんでヤマゴンを苛めるのか」と問うた。
暴行を加えた男子らは、「ヤマゴンは不潔だし、注意しても直らないから殴った」と説明した。それを受けた担任は、「不潔なヤマゴンは分かった。みんな、他にヤマゴンに言いたいことはないか」と、クラス全員にひとこと言うよう勧めた。
みんなは、ひとりずつヤマゴンの欠点を述べた。欠点といっても、「給食を残す」、「食べ方が汚い」、「鼻くそをほじっている」、「くさい」、「ジャージに毛玉がついている」など、実にどうでもいいことだった。一方的に吊るし挙げられたヤマゴンはいつものように黙って下を向いていた。
私を含めたクラス全員、誰一人もヤマゴンをかばうことをしなかった。ヤマゴンの我慢強さを褒める人もいなかった。そりゃそうだ。小学6年生ともなると、場の空気を読むことくらいはできる。イジメのベクトルが自分に向かうことが怖かったのだ。
クラス全員が悪口を言う・・・・という催眠状態に陥った、という感じだ。
先生は、ペンッ! と両の手を打って大きな声で言った。
「ヤマゴンをどうするか多数決で決めよう」
暴力的ないじめっ子は、暴力行為を行った罪を免れた喜びで調子づき、真っ先に手をあげた。
「みんなで一発ずつ殴るのがいいと思います」
この提案に担任は乗った。
「それじゃあ、みんなで一発ずつ殴ったらいいと思う人は手をあげて」
多数決の結果、ヤマゴンを殴ることに決定した。
「じゃあ、みんな、一発ずつ殴りなさい。いいな、ヤマゴン」
ヤマゴンは、皆の前で椅子に座らされ、クラス全員40人ほどに一発ずつ殴られた。先生が殴っていいと明言したものだから、張り手の子もいたし、ミゾオチ付近をグーで殴ったりした子もいた。担任はそれをじっと見て、ときおり笑いを我慢しているかのように唇が歪んだ。
ものすごく怖かった。
ヤマゴンは椅子に座りながら腹部をかばうように小さい身体を丸めていた。
私の番がきた。ヤマゴンが泣いているのを見て、手が震えた。いつもは暴れん坊の私も子どもながらに理不尽だ、と思った。「ごめんなさい」と口を動かしてみたものの、声が思うように出ず、かすれて消えた。私はヤマゴンを叩いた。
担任が怖かった。私もこの担任の暴言によって非常に傷ついていたからだ。同時に、「こんなことやめよう」という止める勇気がないふがいなさを恥じた。
この担任は最後まで、理不尽な暴力が反社会的なことであり、やってはイケナイことであるとの説明を子供たちにすることはなかった。
この教育現場で起きた異常な出来事は今でも心の中に重たい鉛となって沈んでいる。こんな経験、したくなかった。
このように理不尽なことがまかり通っている田舎の不思議な環境に、どっぷり浸かって少女時代を過ごしたせいで、大人になった今でも学校教育に対し、憤りと疑惑が常に付きまとっている。
子供を産むのが怖いと思っていたのは、こういうトラウマも原因の一つなのかもしれない・・・と思うと、担任の犯した罪の大きさを改めて感じることができる。ヤマゴンのように理不尽な思いをした子供が将来どんな大人になっているか会うこともないので分からないけれど、トラウマが発生している可能性は高いだろう。自分だってこの腐った環境を経験したせいで、“子供を産んで育てる”ことが、すごく怖くなったことは確かであり、この傷が癒えることはない。
田舎は特に権威主義が横行しているのも事実であり、絶望的だ・・・となると、周囲の大人が子供たちを守る意識を強く持つことが必要だと思う。
子供は世間を知らないから、自分の未来がうまく描けないのは当然のこと。いくら大人が、「頑張って勉強して見返してやれ」とか、「学校に行かないとロクな大人にならない」と主張してみても子供には通じない。だいたい、イジメが深刻化しているのに、そんな呑気なことを言っている場合じゃない。すでに子どもは死を選択している可能性だってあるのだ。
子どもの命よりも大切な学校なんてない。勉強なんていつでもできるし、遅れた分だって取り戻すことはいくらでも可能だ。だけど命だけは取り戻すことはできない。
子どもが学校で重大な問題を抱えて絶望していたら、大人がしなければならないことはまず、ぐちゃぐちゃ言う前に速やかに環境を変えることだ。
生きることが先決、命よりも大切な学校なんてない。
学校は生徒の安全を守る義務がある。今回、この義務を放置しているという問題が浮き彫りになった。安全のない学校が当たり前であるならば、ゴミのような教師なんて削減して、その分、警察官および警察官OBなどを学校に常駐させればいい。暴力行為を正当化するクソガキへの抑制効果になるだろう。我ながらいいアイデアだと思っている。
また、残されたご遺族にとっては子供を理不尽な形で奪われたという、まさに生きているのに殺されたに等しい地獄を味わっている。多感な年ごろのクラスメートにとっても同様に心に傷が残る場合もあるので、精神面のケアについて対応策が急務だろう。