トップインタビュー 「国内回帰の息吹を感じる」 稲葉弘幸 日本精密機械工業会会長(北村製作所社長)

1958年に時計・光学機器・計測器や通信機器などの精密部品を生産する小形工作機械メーカーグループとしてスタートした日本精密機械工業会。1972年に名称を「日本小型工作機械工業会」と改称し、2012年には「日本精密機械工業会」と再度改称して今日に至っている。正会員は37社(2014年6月24日現在)、賛助会員49社(同4月30日現在)、特別会員1名の工業会だ。

今年6月に開催された日本精密機械工業会第57回総会にて新会長に就任された稲葉弘幸 北村製作所社長。「日本回帰への期待が高まりつつある」と見通しも明るい。
新会長としての豊富や業界を取り巻く背景などを伺った。





日本品質の高さを前面に打ち出す!

「グローバル競争下でも個性を発揮し、精密機械業界の継続的な発展をするためにも、会員相互の親密度の高い工業会であることを基本路線に挙げたいと思っている」と話す稲葉会長。

同工業会では、強靱で強固な企業と産業基盤を築き、新しい需要の創出を喚起するための一案として、このほどジャパンメイド認証制度を掲げた。これは日本製を見直し、品質の高さや優位性を前面に打ち出す狙いがあるもので、所属する会員企業の大半が中小企業という同工業会にとっても心強い取り組みになる。

稲葉会長は、「残念ながら製造業が日本市場の拡大を期待するのは難しい時代になった。かといって海外へ生産拠点をつくるか、といっても中小企業では資金・人的に困難。われわれは日本国内でものづくりをしている集団なので、その部分をPRしていきたい」と意欲を見せるとともに、「最近、内需も回復傾向にあり、日本回帰への盛り上がりを感じているが、そうはいっても地産地消が大原則の部分もある。国内製造業は自動車産業が中心となって動いているが、その自動車も長期的にみると部品点数が減ってくると思われる。最近ではロボット産業が勢いを増してセンサー技術が必要になるなど、加工を必要とするものは今後さらに小型化へと進む傾向にある。こういった理由からコアな部分で製造に携わっている日本の精密機械分野にとっては追い風になると考えている」と明るい見通しを示した。

量産分野は残念ながら海外へとシフトされる一方、多品種少量分野は国内生産の鍵となる。昔は5000個を超えると海外生産へ流れてしまうと聞いた。

「細かなニーズに対応するためには多様化した製造に慣れていくしかない。ところが多品種少量は難しい側面がある。まず、作業効率と経済効果の高い製造現場の構築には、様々な仕事をかき集めても経済効果が得られるための設備が必要で、全体的にも仕事量を確保する必要もある。これらはコストをかければ出来るが、先立つものがなければ難しいのが現状。ニッチな分野で活躍しておられる皆様の現場に合ったニーズを聞き入れ、提案していくのもわれわれの仕事だと思っている」(稲葉会長)

日本の強みを見せつける! JIMTOF2014への期待

今年は2年に1度開催される『日本国際工作機械見本市(JIMTOF)』の開催年にあたる。
この展示会は、世界で最も早く最先端の技術を見せる展示会であり、工作機械と関連製品はあらゆる工業の基盤となることから、工業立国・日本の技術水準を映す鏡として国内外から高い感心を集めている。また、充実した併催企画に加えて、高度な情報交換の場としても世界中から注目されており、業界挙げての意気込みも並々ならぬものがある。

「日本製造業の特長は、他国に比べ、実に多くの有名ブランドがあること。トヨタ、日産、ホンダ、セイコー、シチズンなど数を挙げればキリがないが、われわれ工業会のメンバーは常に黒子的な存在で貢献してきた。一時的に為替や売り先の問題でものづくりも外に出てしまったが、ブランドの多さはわが国のものづくり復活へのきっかけになるのではないか。まさに、今、その転機が来ているんじゃないかという気がしている」(稲葉会長)

日本の製造業の優位性についても「日本のものづくりの良さや特長のひとつに、“伝承すること”があるが、これは血筋を絶やさずに脈々と続いている天皇家と一緒で、ものづくりにも現れている。ものづくりの精神がDNAレベルで組み込まれている気すらしてくるんですね。某国などは常に大家が変わって、変わったとたん墓まで暴いてその歴史を消そうとする。この差は大きい」と話す。

「われわれの工業会は輸出比率が30%と満たないが、ニッチな分野や超精密分野で生き残りをかける人々の底力として貢献していきたい。JIMTOF2014は転機になると考えている」(稲葉会長)

ユーザーの要望が進化を後押しする

さて、稲葉会長が経営する北村製作所(本社=東京都墨田区太平4-13-4)について触れておこう。その歴史は古く、初代北村金太郎氏が現住所に設立したのが1893年。1897年頃には精工舎専属工場として時計製造のための工作機械製造を始めた。精工舎は服部時計店(現・セイコーホールディングス)の製造部門として設立された会社である。

北村製作所本社近くには複合商業施設「オリナス(OLINAS)」があるが、もともとは精工舎の工場跡地であった。時計部品加工用の旋盤を納入して商売をはじめた創業者の北村金太郎氏の前身は鉄砲鍛冶だったという。

「鉄砲鍛冶なので鉄を加工するのが上手いだろうと声がかかったことが今の商売のキッカケになったらしいのですが、他にも面白い理由があって、服部時計店の創業者の名前は服部金太郎。同じ金太郎同士で二人はとても気が合っていたと聞いている。当時の服部時計店は輸入時計を販売する会社だったが国産時計を製造する目的に起こした別会社が精工舎だった。ちょうどこの頃時計の国産化が始まって、セイコーと弊社を重ね合わせるとリンクしている。戦後はセイコーグループには戻れなかったけれど、板橋あたりはカメラや双眼鏡の精密加工が多かったので戦後はそこに機械を納入していった。こうやってみると、“ユーザーさんの要望が進化を後押しする”と実感しますね」(稲葉会長)

太平洋戦争の時はこの地域一帯全部焼けた。第二次世界大戦の空襲では工場が全焼し、一時は事業中断の憂き目にあったが、激動の時代を創業当時から同じ土地で生き抜いてきた。北村製作所の121年という長い時間の中で受け継がれているのはもちろん“伝統の技”であり、高精度、高品質の工作機械をつくり続けている。なかなかドラマチックな話である。

代々、世継ぎが生まれず経営者は皆、養子だとのことで、「だから続いているのかもしれないね」と冗談を言って笑わせてくれた。

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