OKKが激動の時代を生き抜いて100周年を迎える

 本年100周年を迎えたOKK(社長=宮島義嗣氏)が11月16日に大阪市内にあるリーガロイヤルホテルで創業100周年記念式典を開いた。

 同社は10月1日付けで商号を大阪機工から呼称社名としているOKKに変更。OKKの商標は1920(大正9)年年商号を株式会社大阪機械工作所に変更した時から紡績機械に使用され、工作機械は1938(昭和13)年から使われている。1991年の75周年時に呼称社名を大阪機工からOKKとしてすでに四半世紀。100年を迎えたことを機に名実ともにOKKとして新たな時代に踏み出した。OKKの歴史や100周年記念式典の様子を掲載する。

時代が苦しくても、ものづくりの原点から、はみ出ることをしなかった

 今から100年前の1915年、第一次世界大戦の最中、創業者である松田重次郎により大阪の地にOKKの前身となる(株)松田製作所が設立された。創業時の最初の製品となったのは、渦巻きポンプ。第一次世界大戦等軍需向けの部品製造も重要な産業だった。松田製作所は、1920年に社名を大阪機械工作所に変更、この頃は様々なタイプの紡績機械を製造している。1930年代になると、内燃機関の製造、その試験装置や電動機も開発した。



 1939年には兵庫県伊丹市に猪名川製造所を開設し、工作機械の製造をより本格的に行っていく。1942年には、汎用フライス盤『MHフライス』の原型を完成させた。このマシンは、改良を加えながら現在の『MHフライス』として引き継がれヒットしていくが、ここまでの道のりは決して平坦ではなかった。時代の波にさらされながら、多くの失敗や敗戦後の大混乱を経験した。昭和の時代、高度成長期の同社は意外なことに水道メーター、酒充填機なども製造している。波瀾万丈の歴史をくぐり抜けながら、時代時代に応じた製品を生みだし、ものづくりの原点から、はみ出ることなく数々のヒット商品を生み出してきたのである。

意外なことに酒充填機を製造したことも
意外なことに酒充填機を製造したことも
 さて、1974年には、現在のマシニングセンタの原型となる『MCH500』をリリース。その後NCフライスの代名詞ともなった『オートミラー』、そして“立形マシニングセンタのOKK”と称されるきっかけをつくった『MCV500』とヒット商品を次々と世に送り出した。1985年にはアルミ部品の高速量産加工時代が到来し、時代の要請に応えるべく『PCV40』を開発し、高い評価を得た。

マシニングセンタの原型となった機械
マシニングセンタの原型となった機械
 1994年にはOKKは新しい時代をつくる製品を世に送り出している。そのマシンは、“重厚長大”と“軽薄短小”の間というコンセプトで開発され、OKKのものづくり魂とも呼べるDNAが脈々と受け継がれ続けている『VMシリーズ』である。なお、このVMシリーズは、宮島社長が入社後、最初に手掛けたマシンであると聞いた。そして、北米やアジアで好評の横形マシニングセンタ『HMシリーズ』、従来サイズの限界を超えた超大型マシニングセンタ『HM1600』―――。
 2014年には猪名川製造所のメイン工場が完成し、OKKはつねに時代時代のニーズに応え続けてきたのだ。それは今も進化し続けている。

100年間築き上げてきた技術と品質を一段と強化しユーザーニーズに応えたい

あいさつする宮島社長
あいさつする宮島社長
 記念式典の中であいさつに立った宮島社長は、「お陰様で当社は本年10月に100周年の大きな節目を迎えることができた。これもひとえにこれまでご支援いただいたお取引先、株主、金融機関、地域社会の皆様、そして本日の礎を築き上げてくれた諸先輩のお陰である」と感謝の意を表したあと、「100年前の大正4年に大阪・福島の地に渦巻きポンプの製造を主業務として大きな希望と理想をもって松田重次郎が3名の有志により設立した松田製作所が当社の始まりだった。その後、水道メーターや絹糸紡績機械の製造を開始したほか、国内外企業との連携や数多くの新規事業を手掛けてきた。工作機械は、経済環境による企業の設備投資動向に左右されるため、市場環境の変化が激しい産業である。当社においても、二度の大戦による混乱、オイルショックやバブル崩壊、最近ではリーマンショック等、激動の時代を歩んできた。こうした中、これらの幾多の大波を乗り越え、100年という大きな節目を迎えられたのは、本日、ご臨席いただいた皆様のご支援に加え、当社の社是である誠実のもと、健全な経営方針を堅持し、ひたすら愚直にものづくりを続けてきたことと、それぞれの時代のニーズを捉え、真摯の精神でもって、社会のニーズに果敢に取り組んできたことにあると考えている。こうした歴史を振り返ると人材がいかに重要であるかが分かってくる。近年、知能化、省人化、無人化が進み、人が介することも少なくなってきているが、しかし、ものづくりにとって、最後に必要なものは人の技能力である」と述べ、「特に私どもが製造しているマザーマシンである工作機械は、摺り合わせの技術と多くの職人の技能の結集の上で成り立っている。これらの技能はマニュアルや文章化することが困難であり、一朝一夕で習得できるものでもなく、長い年月をかけて地道に身につけるものであり、工作機械を造っていく中で必要不可欠なものである。したがって、今後は特に技能伝承、人材育成に力を入れていきたいと思っている」と人材育成の重要性に触れた。

 また、次のステップとして、「創業100周年は終着点ではなく、新たな歴史の始まりである。メーカーとして今一度、原点に返り、いかにユーザーの皆様方に満足していただけるか、いかに安心して製品を使っていただけるかに目線を置き、現場、現物、現実の三現主義を基本として、100年間築き上げてきた技術と品質を一段と強化していく。特に一定の評価を頂いている重切削、高剛性は当社が持つ専門技術は永年培ってきたOKKの強みである。この部分をより一層磨いていくとともに、新しい技術と融合などにより新たに進化させていく」と述べ、「当社は今後も愚直なものづくりという良き伝統を守りつつ、絶えずユーザーニーズを的確に捉え、より良い製品の開発に取り組んでいくことにより皆様の期待と信頼にお応えできるような企業を目指していく」と力強くしめくくった。

「次なる100年に向け新たな飛躍を遂げていくものと確信」

藤原 伊丹市長
藤原 伊丹市長
 来賓を代表して藤原保幸 伊丹市 市長があいさつをした。この中で伊丹市長は、「ちょうど100年前に大阪の地で創業され、昭和14年に伊丹の地に工場を造っていただき、伊丹市との付き合いがその時から始まったが、正式にいうとその当時、まだ伊丹市は存在しておらず、その翌年の昭和15年に伊丹市が誕生した。現在、OKK様は伊丹の企業として伊丹の地域社会に多大な貢献をしている」と感謝の意を表した。

花木 日本工作機械工業会会長
花木 日本工作機械工業会会長
 続いて花木義麿 日本工作機械工業会 会長(オークマ社長)がお祝いの言葉を述べた。花木会長は、「OKK様は当業界の発展に重要な役割を果たされ、また、日工会の活動には多大なるご尽力を頂いた」と日頃の感謝を述べたあと、「創業された大正4年といえば、日本の工業が発展を遂げていく黎明期だったと思う。それまでの機械輸入国日本から、自国で生産をして輸出をする機械技術国日本へ転換を図っていこうとする時代。工作機械でいうと、1915年からの3年間で生産高が12倍になったという記録がある。まさに工作機械も急成長した時代だった。日工会が発足したのは1951年の昭和26年で、発足当時は会員企業が41社であった。OKK様は発足当時からのメンバーでもある。以来、NCフライス盤をいち早く開発され、そしてまた、工作機械のNC化を積極的に進められてきた。高い技術力をもって強い営業基盤を築いておられる。海外展開も積極的に進められ、今では日本のみならず世界を代表する工作機械メーカーとなった。OKKの名前は機械のロゴとして使用されていたが、このロゴには高剛性、高精度、そして信頼のおける工作機械であるというイメージを表すものとして広く認知されており、OKKブランドはものづくりの世界で長く、広く親しまれている。日工会関連では、OKK様には永年にわたり理事会社を勤めていただき、また、各委員会の委員長をたくさん輩出していただくとともに業界の指導的立場で工業会のご尽力をいただいている。井関会長様には、私が2年前、日工会会長に就任した折から、経営委員会の委員長をお願いしている。創業100周年の節目を迎えられた今、次なる100年に向け新たな飛躍を遂げていくものと確信をしている」と激励の言葉を述べた。

 藤原 伊丹市長、花木 日本工作機械工業会会長、千葉靖雄 OKK会会長、佐藤悦郎 ユアサ商事社長、中田 繞 山善社長、漆間 啓 三菱電機 常務執行役FAシステム事業本部長、稲葉善治ファナック社長、Pongsak Chindasook Managing Director、Richiard Layo DYNAMIC INTK OF WISCONSIS President、小坂 肇 りそな銀行 常務執行役員大阪営業部長、向山隆司 OKK外注協力会会長、Bernard Bettan Halbronn S.A.S President、Carlo Barani Tecnor Macchine S.p.A President、宮島OKK社長、井関博文OKK会長、浜辺義男OKK専務による鏡開きが行われた。乾杯の発声は千葉OKK会会長が行った。

 祝宴中、OKK100年のあゆみが上映された。ビッグバンドによる演奏が流れ、和やかな祝宴となった。浜辺専務が謝辞を述べた。

「本質は現場にある」――技術畑を歩んできた宮島社長は徹底した現場主義。

 
 入社して設計に配属された宮島社長は、社長になるまで長年設計を担当しているという根っからの技術畑だ。宮島社長が、会場内で現場の思いを話してくれた。

 「私はね、三現主義(現場、現物、現実)を第一に思ってきた。お客さんところには、怒られにも行ったし、目新しい話があればすぐに飛んでいった。今でもずっと現場の重要性について話しているんですよ。設計は机の上に向かってコツコツとやっているけれど、机ばかり向かっても知識は増えないし機械の本質が見えない。現場で起こっている事実を設計が知らないということは、自分の技量が足りないということにも繋がる。もちろん社長になっても現場を回っていますよ。それから、あのアルミ量産加工時代の『PCV』は、私が会社に入社した時にできた機械です。以降の開発した機械は、ずっと私が噛んでるんですね。『VM』は私が最初に携わった機械ですから、思い入れもひとしお。社長になるとなかなか口出せないこともあるけれど、育てた機械が可愛くて陰から見つめつつ、あれやこれやと言っています(笑)。OKKブランドは重切削、高剛性、高精度のイメージがありますから、それを大事にして次の100年に向かっていきたいと思います。今は難削材のニーズが多く出てきています。われわれの得意とする分野です。これからいろんな材料が出てくるでしょう。ものづくりは技術。愚直なまでのものづくりをコツコツと積み上げていきます」。

―――新生OKKは次の100年にむけて今、大きく歩み出した。

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