なんでもアリの風潮と困った人々
先日、こんなニュースがあった。
渋谷駅にある岡本太郎壁画に芸術家集団を名乗る輩が無断で細工したのだ。
本人たちは、「原発事故で歴史は更新されてしまったので、ヒバクのクロニクル(年代記)に福島を付け足した」とのこと。
ここに、主義主張を通すためならなんでもアリが許されるのが芸術家だ、という妙な特権意識臭をプ~ンと感じとった私。私も主義主張を通すため、いたるところにイタズラをしてみたい衝動はあるが、かろうじてグッと堪えて今日に至っている。
原発問題に触れて問題を世に問うことは良い。売名行為も悪いとは言わない。
ただ、彼らが一見、悲惨な日本の現状をアートで表現するという、至ってマトモな動機を示しておきながら、本当の目的は違うところにあるのは一目瞭然である。人の苦しみや悲しみに深い理解を示すなら、まず、この巨大壁画を復元してくれた皆さんの気持ちを考えることはできないのか。目の前にある隠れた苦労に気付きもしないで、なぜ人類愛を説くことができるのだろう。
作品を傷つけないからいいんだ、というのであれば、それは違う。他人の作品に無断で手を加えておきながら、それはないだろう。岡本太郎の作品云々というよりも倫理観の問題なのだ。
主義主張を通すため、なんでもアリの風潮がまかり通るのはよくない。この問題は今の日本を鑑みても通じるものがある。
また、今回、タレント学者がこれらの行為を正当化していたが、問題の本質をなにも分かっちゃいない。私に対しても「ここは北朝鮮か」とご丁寧に暴言を吐いてくれたが、若者の主張と倫理観の問題は別だ。もっというならば、最近、この手のコメンテーターは己の影響力を考えずに発言する。いろんなイデオロギーがあって当然のことだが、高齢者を同一視した上で社会からの排除を口にしたり、大企業は悪だと決めつけたり、あまりにも短絡的すぎる。己が社会に与える影響をまったく無視していることも問題である。
若者だろうが老人だろうが優秀な人は優秀である。生き方は本人が決めるべきで社会が決めることじゃない。“大企業は悪論”もいまいちピンとこない。
企業のこういう仕組みのこういうところが良くない、とハッキリしなければ問題点はボケるというものだ。私は弱小ゆえ目立たないが細かいとこまで製造業を取材しているし、自分も事務所を抱えているから経営者の苦労や産業構造の問題点は少なくとも、このわけのわからぬタレント学者よりは理解していると自負している。
いくらイノベーションなんて耳障りの良い言葉を使っても、普通の方がイノベーションを起こそうとすると、カッコ悪くて、惨めで、屈辱的な思いをすることのほうが多い。誰もが優秀ではないのだ。私も優秀ではないから何度も屈辱的な思いを経験し、枕を涙で濡らしたことも多々あった。挑戦して砕けたこともあったけれど、私はそれを社会のせいだと一度も思ったことはない。
ほとんどの方々が地道にコツコツやっている世界で生きている。コツコツの積み上げをバカにするような発言を垂れ流し、他人の努力の上に胡坐をかいて、声高々ときれいごとを言うのはいかがなものか。すでに企業規模を問わず、多くの企業がイノベーションを起こそうと躍起になっている。そういうところを見ずに、なにが反体制だ。反権力だ。バカバカしい。そういう短絡的なもの言いにもう、飽きてきたわ。