【祝】アマダホールディングスが70周年記念式典を開く

 本年70周年を迎えたアマダホールディングスが9月16日に都内にある帝国ホテルで創業70周年記念式典を開いた。

 1946(昭和21)年9月、終戦直後の軍需工場から掘り出した焼けた旋盤が1台。――。
アマダホールディングスは、戦後間もない焼け野が原の東京で、創業者である天田 勇氏が32歳の頃、この焼け旋盤1台をもとに東京都豊島区内で個人経営の機械修理工場を開いたことから始まる。70周年を迎えた同社の売上げは3000億円、各国に約80社、約8000名の従業員を抱えるまでに成長した。

 アマダホールディングスの歴史や70周年記念式典の様子を掲載する。

焼け旋盤1台から「販売のアマダ」へ

全てはこの1台から始まった。
全てはこの1台から始まった。
 「技術者として社会に役立つ機械を開発したい。安くて使いやすい国産の機械をお客様に提供していきたい」という創業者の思いからつくられたのが、1955年当時、日本ではまだ製造されていなかったバンドソーだった。自動車、造船、家電、カメラ、ミシン、時計などの機械類の生産が飛躍的の伸びた時代である。それらの機械加工に欠かせないコンターマシンの需要は増え、いち早くものづくりのトレンドを捉えた同社は、チャンスを掴んだ。その後、先端技術を取り入れたベンディングマシン、プレスマシン、板金加工に革命を起こしたNCタレットパンチプレス、レーザーマシンが市場に投入されてゆく。日本は高度成長期を迎え、「もはや戦後ではない」という言葉がトレンドとなった頃、同社は「販売のアマダ」と呼ばれるまでになっていた。

 “ お客が実際に使って、納得して、買ってもらう”ためには、お客のもとへ直接機械を持ち込んで、その場で実演することが、良さを理解してもらう方法としては手っ取り早い。
 

斬新なアイデアだったデモ・カー販売
斬新なアイデアだったデモ・カー販売
 そこで、マシンをトラックに積んで工場を突撃訪問し、デモ・カーによる販売を開始した。さらには、直販体制による営業所を全国に展開し、機械展示場を併設、同社に大型機械展示場をオープンさせた。このとき一台ずつに専門エンジニアが付き、説明にあたった。お客様の生の声をきいて、開発にフィードバックする――業界の常識を覆す直販、直サービス体制を確立した。

 創業者であり技術者であった天田 勇氏を営業面から支えた人物がいた。天田 勇氏の義弟である江守龍治氏(副社長、後にアマダ会長)である。「自分でつくったものは自分で売る」という、独自の販売戦略を創造した人物でもあった。

国産バンドソー コンターマシン1号機
国産バンドソー コンターマシン1号機
 高度成長期の大量生産から多品種少量時代へ、そして第四次産業革命への突入と、ものづくりの構造は時代とともに変化していくが、それは同時に変革と新たな挑戦が必要なことを意味する。同社では、お客が合理的に製品をつくりあげられるように、時代に先駆けて加工をデジタル化、工場全体の知能化、自動化によるソリューションの提案、それに伴い展示場も実証加工を行うソリューションセンターへと進化していった。

 開発と製造の一体化を進め、優れた品質、機能を持った商品をより早くお客のもとに届ける、ソリューションとイノベーションの両輪体制も確立した。加えて、世界規模で生産・販売拠点を整備し、稼動化の保守・メンテナンスでは、“顧客の工場を止めない”サービス体制も構築している。こうしたエンジニアリングをバックボーンとした事業領域の充実、拡大について、同社では、「お客様の求めている姿であり、まさに金属加工機械の総合メーカーとしての第2の創業である」と位置付け、今後についても、「これから製造業の世界は、さらなるデジタル化と地球環境を大きなテーマとし、目まぐるしい変化を続けていくだろう」としている。

創業から続いている企業理念は今も受け継がれている

70周年の喜びと感謝を述べる岡本 アマダホールディングス会長兼CEO
70周年の喜びと感謝を述べる岡本 アマダホールディングス会長兼CEO
 記念式典の中であいさつに立った岡本満夫 アマダホールディングス代表取締役会長兼CEOは、「アマダは江守龍治という類い稀な2人によって創業発展した企業です。“お客様とともに発展する”という創業から続いている企業理念は変わること無く受け継がれ、たくさんの方々に支えられ、本日このように式典を迎えることができました」と感謝の意を表したあと、「販売力、技術力、M&Aという言葉を使わなかった時代から、国内外の企業との連携や、買収を実行し、アマダブランドを構築し、組織を築き上げてきました。グループ社員がもうひとつの企業理念である、“ものづくりを通じてお客様に、社会に貢献する”というスローガンのもと、切磋琢磨した結果、今日があると認識しています。私は、アマダのトップとして早14年が経過しましたが、優れた経営幹部に恵まれました。常にお客様と市場に売れる商品づくりを念頭に置き、時代の変化や技術革新の先を見て、次々と国内外で戦略の手を打ちました。販売サービスのネットワーク造り、適地生産のための製造拠点づくり、経営基盤の強化のために世界中を飛び回りました。経営にとって、最重要課題である後継者も、昨年ホールディングス設立とともに、社長に磯部が就任し、新しい時代を迎えております。今後もアマダ全社員が共有するDNAを堅持し、これまでの歴史と財産をもって、70年をひとつの節目として、100年企業に向かっていきたいと思います。変革と挑戦を続け、エンジニアリング技術と最新の良品サービスの提供をもって、お客様と社会に貢献する企業であることをここでお約束します」と力強く述べた。

100年に向け、飛躍を遂げていくものと確信

糟谷 経済産業省製造産業局長
糟谷 経済産業省製造産業局長
 来賓の糟谷敏秀経済産業省製造産業局長が、「わが国の製造業は第4次産業革命という大きな波に直面をしていますが、アマダグループ70年の歩みを振り返ると、時代に先駆けた取り組みをしておられたように思います。第1にスピード経営です。創業後間もない時期から、外部の技術をM&Aや提携を通じて積極的に取り込んで経営の多角化を進めました。2番目は、新しい技術の積極的な活用です。1980年のレーザー加工技術、1990年代には熟練工の暗黙値である曲げ加工技術のデジタル化をして、誰でも高度な加工ができるようにされるなど、その時々の先端技術を取り入れてきました。3番目にお客様の声、市場の声、ニーズを起点とした取り組みです。岡本会長が社長に就任された直後には、開発製造部門と販売サービス部門を統合し、お客さまの声を設計製造に素早く反映する体制に転換されました。4番目にソリューションの充実です。もののコモディティ化が進む中で、製造業は市場の潜在的なニーズに答えるべく、ソリューションで付加価値をつけていくことが必要です。単に良い技術で良いモノをつくるだけではなく、顧客にとって、価値を生み出すことが不可欠。アマダグループにおかれましては、70年代にマシンツールプラザ、2007年以降には日米欧にソリューションセンターを設置され、ソリューションビジネスを展開しておられます。5番目に人材育成です。わが国製造業の強みはいうまでもなく、現場力にあります。技術者の高い技能水準とそうした技術者による日々の改善がロボットなどの自動化技術とあいまって、製造技術を高度化し、生産性を着実に向上させてきました。また1970年代に民間初の職業訓練校としてアマダスクールを開校され、加工技術者、経営後継者などの人材育成をすすめています。他にも業界の発展にも貢献され、今日に至るまでのこうしたアマダグループの皆様の果敢な取り組みや業界に対する様々な貢献に対しまして深く経緯を表する次第です」とあいさつをした。

東原 日立製作所社長兼CEO
東原 日立製作所社長兼CEO
 続いて、東原敏昭 日立製作所 取締役代表執行役 執行役社長兼CEOが、「リニア新幹線に乗りましたが、505km出たときに、これはすごいな、と改めて機械の加工技術、電気制御システムがいかに重要なことかと考えさせられました。これからますます高度なインフラがどんどん海外に進出していかなければならないと改めて感じた次第です。日立製作所といたしましても、アマダ様から、実にたくさんの機械、金属加工の機械を納入させていただいております。新幹線等の製作や、コンプレッサ、エレベータ、エスカレータの製造工場でもアマダさんの機械を使わせて頂いていますが、やはり日立品質のベースはアマダさんの金属加工技術がベースとなっている。その品質の良さに注目しています。また、品質の確保をするには人材が大切です。経営方針では、お客様とともに発展するという大きなスローガンを掲げられており、従業員のスピリッツ、アマダ様の資質に敬意を表している次第です」と、祝いの言葉を述べた。

寺町 THK社長
寺町 THK社長
 協力企業を代表して、寺町彰博THK代表取締役社長があいさつをした。この中で寺町社長は、「アマダグループは1955年にコンターマシンを製品化され、その後1971年にタレットパンチングプレスという形で大きく発展されています。最近は、金属加工総合のシステムとして御提案をされるようになり、業界を牽引する会社に成長されました。THKとアマダ様との関係は、1974年にタレットパンチのガイド案内部にわたしどもの製品を採用していただいたことから始まります。THKの創業者であります私の父から戦後の会社を創業された経営者の中で、天田勇様と江守様の話がしょっちゅう出ていた思い出があります。今でも忘れませんが、1980年に配属された工場で、3470、2555、1860という、われわれが作っている当時は長い1本物の製品をつくらせていただきました。当時はまだ、わたしどものつくっている製品の1割以上がアマダ様向けの製品だということもあったのかもしれません。そうして私は東京に戻りましたが、実は当時、江守様から、直接呼ばれまして、「オマエ、ちょっとナマイキだぞ、と。若造が偉そうなことを言っているようじゃないか、と。もっと真摯に勉強しろ」、と1時間ほど、とくとくと説教を受けました。今でも忘れませんが、お客様に対する態度、社員に対する態度、徹底的にお話しをいただきました。今思えば、わたしの父のほうから、江守様にお灸を据えて欲しい、とお願いしたのかもしれません」と思い出話を述べたあと、「私自身、アマダ様にはたくさんの学びをいただいております。とくに最近は変革と挑戦ということで、大きく舵が変わってきております。積極的なM&Aもありますが、工場のリニューアル、新しいソリューションのための施設をどんどん新設されています。100周年を迎えられる頃には、今以上に世界に貢献する企業になっていると思います」と声援を送った。

花木 日本工作機械工業会会長(オークマ社長)
花木 日本工作機械工業会会長(オークマ社長)
 続いて、鏡開きが行われ、乾杯の発声を花木義麿 日本工作機械工業会会長(オークマ代表取締役社長)が行った。この中で花木会長は、「時代とともにお客様のご要求や問題課題を的確に捉え、解決法を提案するアマダ様は、まじめに新技術の開発、新規事業への進出に務められ、これが今日のご繁栄になったものだと思っています。これからもますますご繁栄になり100周年200周年を迎えられますことを心より祈念いたします」と述べ、祝杯をあげた。



磯部 アマダホールディングス社長
磯部 アマダホールディングス社長
 会場内ではジャズプレイヤーのMALTA氏のサックス演奏を楽しみながら和やかな雰囲気に包まれた。宴もたけなわの頃、磯部 任 アマダホールディングス代表取締役社長が、「皆様から、われわれに対する期待と励ましの言葉をいただきました。われわれも大変身の引き締まる思いでございます。アマダグループは今日から次の100周年に向けた新たな成長戦略をスタートしてまいります。お客様、お取引様などとともに業界の発展、広く社会に貢献を、ものづくりを通じて必ずや実現していくことをここに固くお誓いいたします。本日の晴れ晴れしい式典での熱い感動を胸に刻んで世界で働く8000人のアマダ社員とともに、歩んで参ります。今後ともアマダグループに対し、一層のご支援とご鞭撻をお願いしたいと思います」と中締めをした。

(参考文献:「70th Anniversary アマダグループ創業70周年記念誌「変革」と「挑戦」)

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