直目

大津市生徒暴行隠ぺい事件にみる教師の罪とトラウマ

あまりにも衝撃的な事件であり、専門外だが思わず書かずにはいられなくなってしまった。ニュースではイジメとなっているけれど、明らかに“暴行・隠ぺい”事件であり、この問題については、おそらく日本中が怒りに燃えていると感じている。“マトモな学校生活”であれば児童たちは「集団で時間を共有することは我慢も必要である」ということを知る。学校は個性の集まりでもあるから、元気のよい子も、乱暴な子も、恥ずかしがり屋な子も、おとなしい子も、教えを守りながら協調性を学んでいく。もちろん、ちょっとしたイジメに近いこともあろう。学校生活は、他人に不愉快な思いをさせることはイケナイことだということや、多少イジメられても対応できる精神力を鍛える・・・といった情緒教育に必要な時期・課程でもある。そうして悪いことをしたら反省をして罪を償うことを学んでいく。この大津市暴力・隠ぺい事件で、生徒の心の叫びを無視した教師をニュースで拝見し、私は小学6年生の頃を思い出した。絶対に忘れることはできないトラウマがある。ここで書くのもおぞましい出来事だが、あえて書くことにしよう。このような問題は表面化しないだけで全国的に昔から隠されていると睨んでいる。教育の現場では問題が山積みされている。とくに地方に行けばその傾向は強く、重大な問題があっても地域ぐるみで事実を捻じ曲げ隠ぺいし、問題は表に出ないことが多い。私が小学6年生のころ、ヤマゴン(仮名)という男の子がいた。ヤマゴンはいじめられっ子だった。難癖をつけられては、いつも誰かに蹴られたり殴られたりしていた。ヤマゴンは静かな男の子で、たまに泣いたりしていたけれど、ほとんど下を向いて我慢をしていた。ある日、いつものようにヤマゴンはイジメにあっていた。それを見ていた担任は「ダメじゃないか」といじめっ子に注意をし、1時間ほどクラス全員で話し合う時間を設けた。話し合いは進んだ。当然のごとく、ヤマゴンは「自分は何もしていないのだから殴らないで欲しい」と訴えた。先生は暴行を加えたいじめっ子に、「なんでヤマゴンを苛めるのか」と問うた。暴行を加えた男子らは、「ヤマゴンは不潔だし、注意しても直らないから殴った」と説明した。それを受けた担任は、「不潔なヤマゴンは分かった。みんな、他にヤマゴンに言いたいことはないか」と、クラス全員にひとこと言うよう勧めた。みんなは、ひとりずつヤマゴンの欠点を述べた。欠点といっても、「給食を残す」、「食べ方が汚い」、「鼻くそをほじっている」、「くさい」、「ジャージに毛玉がついている」など、実にどうでもいいことだった。一方的に吊るし挙げられたヤマゴンはいつものように黙って下を向いていた。私を含めたクラス全員、誰一人もヤマゴンをかばうことをしなかった。ヤマゴンの我慢強さを褒める人もいなかった。そりゃそうだ。小学6年生ともなると、場の空気を読むことくらいはできる。イジメのベクトルが自分に向かうことが怖かったのだ。クラス全員が悪口を言う・・・・という催眠状態に陥った、という感じだ。先生は、ペンッ! と両の手を打って大きな声で言った。「ヤマゴンをどうするか多数決で決めよう」暴力的ないじめっ子は、暴力行為を行った罪を免れた喜びで調子づき、真っ先に手をあげた。「みんなで一発ずつ殴るのがいいと思います」この提案に担任は乗った。「それじゃあ、みんなで一発ずつ殴ったらいいと思う人は手をあげて」多数決の結果、ヤマゴンを殴ることに決定した。「じゃあ、みんな、一発ずつ殴りなさい。いいな、ヤマゴン」ヤマゴンは、皆の前で椅子に座らされ、クラス全員40人ほどに一発ずつ殴られた。先生が殴っていいと明言したものだから、張り手の子もいたし、ミゾオチ付近をグーで殴ったりした子もいた。担任はそれをじっと見て、ときおり笑いを我慢しているかのように唇が歪んだ。ものすごく怖かった。ヤマゴンは椅子に座りながら腹部をかばうように小さい身体を丸めていた。私の番がきた。ヤマゴンが泣いているのを見て、手が震えた。いつもは暴れん坊の私も子どもながらに理不尽だ、と思った。「ごめんなさい」と口を動かしてみたものの、声が思うように出ず、かすれて消えた。私はヤマゴンを叩いた。担任が怖かった。私もこの担任の暴言によって非常に傷ついていたからだ。同時に、「こんなことやめよう」という止める勇気がないふがいなさを恥じた。この担任は最後まで、理不尽な暴力が反社会的なことであり、やってはイケナイことであるとの説明を子供たちにすることはなかった。この教育現場で起きた異常な出来事は今でも心の中に重たい鉛となって沈んでいる。こんな経験、したくなかった。このように理不尽なことがまかり通っている田舎の不思議な環境に、どっぷり浸かって少女時代を過ごしたせいで、大人になった今でも学校教育に対し、憤りと疑惑が常に付きまとっている。子供を産むのが怖いと思っていたのは、こういうトラウマも原因の一つなのかもしれない・・・と思うと、担任の犯した罪の大きさを改めて感じることができる。ヤマゴンのように理不尽な思いをした子供が将来どんな大人になっているか会うこともないので分からないけれど、トラウマが発生している可能性は高いだろう。自分だってこの腐った環境を経験したせいで、“子供を産んで育てる”ことが、すごく怖くなったことは確かであり、この傷が癒えることはない。田舎は特に権威主義が横行しているのも事実であり、絶望的だ・・・となると、周囲の大人が子供たちを守る意識を強く持つことが必要だと思う。子供は世間を知らないから、自分の未来がうまく描けないのは当然のこと。いくら大人が、「頑張って勉強して見返してやれ」とか、「学校に行かないとロクな大人にならない」と主張してみても子供には通じない。だいたい、イジメが深刻化しているのに、そんな呑気なことを言っている場合じゃない。すでに子どもは死を選択している可能性だってあるのだ。子どもの命よりも大切な学校なんてない。勉強なんていつでもできるし、遅れた分だって取り戻すことはいくらでも可能だ。だけど命だけは取り戻すことはできない。子どもが学校で重大な問題を抱えて絶望していたら、大人がしなければならないことはまず、ぐちゃぐちゃ言う前に速やかに環境を変えることだ。生きることが先決、命よりも大切な学校なんてない。学校は生徒の安全を守る義務がある。今回、この義務を放置しているという問題が浮き彫りになった。安全のない学校が当たり前であるならば、ゴミのような教師なんて削減して、その分、警察官および警察官OBなどを学校に常駐させればいい。暴力行為を正当化するクソガキへの抑制効果になるだろう。我ながらいいアイデアだと思っている。また、残されたご遺族にとっては子供を理不尽な形で奪われたという、まさに生きているのに殺されたに等しい地獄を味わっている。多感な年ごろのクラスメートにとっても同様に心に傷が残る場合もあるので、精神面のケアについて対応策が急務だろう。

巨大ぼったくり慣習に喝!

国民の源泉徴収制度は国にとってなんて楽な制度なのだろう。もともとは戦争費用を賄うために手っとり早い徴収方法として戦前にこの制度が出来たとされている。税金を取る側は民間と違って、頭を下げなくても金を集めることができるわけで、なんてったってウマイ話である。こんな楽な制度はない。サラリーマンの所得はガラス張りで所得税は強制的に天引きされる。その上に、厚生年金、介護保険等も天引きされる。こういった社会保険料も税金と同じようなものだ。これらが、まともに社会に反映されるなら良しとするが、過去のいきさつからして、紛失した年金、箱モノ問題をはじめ、何百兆円という爆大な金が無駄になった。私は年金問題、箱モノ問題を忘れない。忘れそうになったら、たまには思い出すようにしているくらいなので、脳になにかしらの病が見つからない限り、絶対に忘れることはないだろう。なので、社会保障のためにも消費税を上げる・・・と言われても、従来のイキサツからして信用していいものかどうか眉をひそめてしまう。おそらくほとんどの国民がそう思っているに違いない。このようなことに関連して、いつも温和な私が拳を震わせていることがある。介護保険のことだ。この問題は、われわれ老後の生活に大きく左右するので、言わせてもらうことにする。基準段階が10段階ある。資料を見ると、合計所得金額で徴収額が変わってくる。ここで疑問が生まれた。「200万円以上」と「500万円未満」が同じ扱いなのはなぜか。考えてみると、年間合計所得金額が200万円と499万円は貧困度合いが違う。年金生活者の実生活では天と地の差があるといっていいだろう。このカテゴリーの中では、現役時代、平均的なサラリーマンだった層も含まれる。おそらく日本で一番、介護保険料を取れる層であろう。私が言いたいのは、年間約500万円あれば、工夫をすれば生活できるだろうと思われるが、たった1万オーバーしただけの201万円の方の生活は困窮するに違いないということだ。200万円と499万円の層が一緒になるなど、いくらなんでも大雑把すぎやしないか。一番徴収しやすい層を大雑把に扱うことに疑問を持つ。一方、合計所得金額が800万円と1000万円じゃ生活レベルはそう変わらないと睨んでいる。このような所得の層はオーナー会社を経営している等の環境に身を置いている方が多いと思われ、全国の高齢者の中で一握りの方々であろう。ちなみに合計所得金額の低いランク分けは125万円から200万円、125万円未満、80万円以上、80万円以下と細かく分けられている。ボリュームゾーンである200万円から500万円未満を、せめて100万円区切りにすべきだろう。先述のとおり、生活レベルが201万円と499万円では、生活の困窮度合いが全く違うのだ。もっと腹立たしく感じることがある。“年間の年金額が18万以上”の方が対象の『特別徴収』だ。「あー」も「うー」も言わせず、年金から天引きされる老人。はっきり資料にはこう書いてある。「ご本人の希望・申し出による納付の方法の選択はできません。」年金が年間18万以上―――。(これらについてサラッと書いていることがなおさら腹立たしい)低所得の方々はこの年金のほとんどが介護保険料になってしまう可能性だってある。しかも無理やり天引きされるのだから、どうやって生活するのか想像するだけでも悲惨である。年金受給者の中には、自分のかけた年金があやふやになって、まともに貰えない人もワンサカいるという大事件まであった。現在、多くの老若男女たちが暑い中、クーラーなどの電気代や食事代を節約しながら生活している。高齢者などは、体調不良でも孫にオモチャを買ってあげたくて、病院に行くのを我慢している人もいるだろう。年金の責任も取らずして、失敗した政策にも目を向けず、国民から取れるだけ取って失敗の穴埋めをするなど言語道断だ。どこまでぼったくれば気がすむのだろう。国民の所得は透明で当たり前で、国は不透明で良しとするこの風潮。それでも「仕方ない・・・」と指を咥えて納得しろというのか。高齢者の年金受注額が年間18万円しかなくても無理矢理わずかな年金から保険料を口座から天引きするとは、いくらなんでも非情すぎる。国民の年金を滅茶苦茶にしときながら、とにかくムシリ取るのが先で、貧困老人が生活できなくても知ったこっちゃないという姿勢に憤りを感じる私。思わず、「この極悪、鬼畜、野蛮、破廉恥! きゃーっ!」と罵りたくなる。最大の問題点は、本人の意向を無視して年金から天引きし、老人が生活できなくても「これが法律だから従え!」というこの姿勢である。私個人の考えだが、本人の意向を無視したお金の取り方は、ペナルティーが付くうえ、なにより国民の『生活する権利が奪われる危険性』を孕んでいる。したがって、国は法律にひっかかる可能性もあるわけで、重大な問題であるといえよう。こんなことばかりやっているもんだから、いくら税金で福祉を充実させるって言っても信用ならないのは当然であり、わが国の“巨大税金ぼったくり慣習”に、国民はもっと疑問を持ってもいいだろう。

混沌とした世の中にホントの己を見せてやれ!

最近、物事の本質を見抜く大人が少ないと感じることが多い。多数がそうだからといって、それが正論だとは限らないこともある。人というのは多数の意見に流されやすい。流されているほうが楽だからだ。特に主体性がない人は周囲に依存したくなる傾向があるように思う。おそらく依存していれば、うまくいかない自分を社会のせい、環境のせい、周囲のせいにすることができるので、「できない自分」を認めなくて済むからだろう。「仕事がないのは社会のせい」と言い切るほうが不甲斐ない自分から逃避できるし、傷つかなくて済む。特に厳しい経営環境に置かれている方々にとっては、将来的に不安である。なんとかしなければ死活問題にかかわるわけで、いてもたってもいられない心情であろう。自分(会社)の弱点を認めている方は、解決方法を模索し、友人や同じ志を持つ仲間たちの刺激を受けながら、次の展開を考えているのでここでは省くことにするけれど、問題は、できない自分を認めたがらない人々と、それらを巧みに利用する人々である。できない自分を認めたがらない人は不安であるから誰かと迎合することで安心し、類は友を呼ぶ法則から同じようなタイプが自然と同調していく。人の集まるところには様々な人が興味を示すのも世の常であり、困った人たちを利用しようと近づく輩も現れる。その場合、疑問に思うことは、目前にある抜本的な問題点をクリアする前に、世の中を変えようという突拍子もない動きに悪乗りすることだ。そんなエネルギーがあるなら、てめぇンとこの注文のひとつでも取るよう営業努力をするほうが先だと思うのだが、残念なことにそういう考えはないようだ。中には自分の仕事に対し、「このご時世、やっても無駄」という投げやりな人もいたけれど、なぜ、やりもしないのに、無駄という妄想を抱くのだろうか。自分の置かれた環境に不満がある場合、周囲を変えることに注力するよりも、まず、自分を変える努力をすべきであろう。そうするとおのずと自分を取り巻く環境も変わってくるというもの。そんなに嫌なら自分を取り巻く劣悪な環境を改善するためにも、ベクトルは世の中ではなく自分に向けたほうがいい。おそらく目の前のことができない人間が1万人集まっても世の中はなにも変わらない。一歩間違えなくても単なる烏合の衆だ。最近はSNSの普及により仲間を簡単に集うこともできるが、迎合と協調は違う。希薄な人間関係をいくら構築してもあまり意味がなく、人間関係は量より質であると感じている。利害を目的とした付き合いからスタートした場合は特に注意が必要で、いつの間にか他人の人脈や仕事を搾取することばかりを考えているズルイ人間に囲まれていたというのはよくある話だ。このように残念なことにならないためには、まず自立を恐れないことだと感じている。肝が据われば環境や周囲の影響を受けなくて済む。これを実行すれば、余計な人間関係に振り回されることなく、自分にとって良い影響を受ける人にだけ囲まれるようになる。誤解があるといけないので加えておくが、SNSが悪いといっているのではない(良い影響を受ける同志を結び付けることにもSNSは威力を発揮する)。私が最も懸念するのは、いまだに大企業悪論や中小企業弱者論を撒き散らして、知識不足の人々に対し、例えば「ものづくりの魅力で世の中を変えよう」と声高らかにものづくりを標榜しながら製造業にとって全く意味のないことを展開する存在だ(注:真のものづくりに真面目に取り組んでいる組織もちゃんとある)。製造業を標榜しつつ、その実、目的はまったく別のところ(自己利益・自己顕示欲)にある場合があり、いかがなものかと眉をひそめている。社会的な評価や称賛を“強烈に”得られないと充足感を感じない人たちが、混沌とした世の中を利用して“人々から称賛されたいがためだけに全エネルギーを集中させている”こともあるわけで、この場合、仮に「製造業を支援する」等のもっともらしいことを並べても、目的は自己利益と自己顕示欲を満たすことなので、うっかりキレイごとに近づいたところ、物事が好転するどころか、“見返りを求められる”という悲惨な目に遭う可能性だってあるのだから、十分な見極めが必要なのだ。商業臭漂う鍋の蓋を開けたらカラッポだった・・・なーんてことにならぬためにも洞察力を鍛えることも大切であろう。なんといっても真実は大抵、泥臭い些細なところに隠されているのだから。今の時代はある意味、戦後に似ている。考えてみると、焼け野が原の戦後の日本は、人々が生きていくために必要な最低限の栄養すら取れない状態だった。「老人がうるさいから若者は力が発揮できないんだ」とか、「若者は知識不足だから任せられないんだ」とか、そんな戯言を言っている余裕すらなかったはずだ。とにかく老若男女、誰もが絶望の中、必死に生きる術を模索していた。お陰さまで今日も私たちは生きている。そう簡単に死にはしないことが分かるだろう。地獄の底の扉を開けたとたん、思いがけないミラクルワールドが広がっているかもしれない。社会的評価が存在価値であるという考え方にもそろそろ限界がきているわけで、甘い言葉に惑わされず、そこに気付いてほしいし、気付いた人はどんな環境でも新しい道を創造し、切り拓いていけると感じている。製造現場に“うわべだらけのカッコイイ”は必要ありません、と断言しておこう。必要なのは生き抜く力であり、性別も年齢ももはや関係ないのだ。みんなと違ったっていいじゃないか。混沌とした世の中だからこそ、本当の己を見せてやれ! 私は地獄の底の泥水を舐めた経験があるから特にそう思うのかもしれません。周囲に影響されない自主的な人(企業)がたくさん出てくれば日本は変わるでしょうね。

こんなトレンドに疑問

昨年12月に携帯電話からスマホにチェンジしたが、どうも具合が悪い。購入する際、パンフレットを吟味した限りでは国内最強のスマホだったが、発売日が延期され、延び延びになったシロモノである。どうせ買うなら国産が良いと思っていたが、どうやら発表している通りにサクサクとは動かないらしく、本体が強烈に熱くなるという黒い噂が巷で囁かれていた。が、風評に惑わされず日本製を信じたい・・・そんな気持もあり、購入に踏み切った。正直なところ、もともと携帯通信機器などの販売方法に疑問があったので、購入をして確かめたい気持ちもあった。この手の販売方法に日々疑問を持っていた点を挙げると、生活・ビジネスに密着する大切な機器だというのに、高額製品でありながら価格も決まらぬ、製品も出来ていないうちから、堂々と「予約販売」を謳うところである。なお、誤解を招かぬように加えておくと、全ての製品において予約販売が悪いと言っているわけではない。通常、予約して購入するものの場合、品物の情報に詳しく、販売・製造元に信頼を置いている場合がほとんどであるので、今回は“最新機種がよく分からない”という一般大衆の声が多い最新携帯情報機器にのみ触れている。画期的なスマホはここ数年、市場にお目見えしたものであるから製品をよく理解していない消費者だって多い。なのに商品も見本もない中で、煽りに煽る販売方法は、消費者がよく知らない品物をよく知らないうちに購入するという危険性を孕んでいるといえる。高齢者などは特に注意が必要で、高いお金を払って購入しても文字の打ち具合が思ったようにいかず、後で後悔することもあろう。それでも「スペシャルな最新機種が売切れたらどうしよう」的、消費者の足元を見るような販売方法が主流なわけで、最新のスマホが欲しい消費者にとってはまんまと痛いところを突かれているわけである。さて、品行方正な私は店側から言われた通り予約をして、指定された時間通りに店を訪ねて、その場で1時間も羊のように並ばされてスマホを購入したわけだが、ここまでして仕入れたスマホが「パンフレットにあるようには使えない」という異常事態が発生してしまった。残念なことに一部で囁かれていた風評は当たっていたのである。サクサクいくどころか、すぐにフリーズしてしまったり、使用途中で電源が勝手に切れるので、ここ一番のときに電話がかけられない。メールも打てないということはしょっちゅうあるうえ、カメラもピントが合わない、シャッターが押せない、加えてワンセグも観られないという不具合が立て続けに起きた。お陰で移動中、放映している大好きな「カーネーション」を観逃すこともしばしばあり、非常に不愉快な思いをしたわけだ。しかも本体の熱がすごい。すぐに熱を持つくせに熱くなると充電すらできないうえ、操作不能になり、もう致命的である。話を元に戻す。スマホを購入し家に帰って箱を開けたところ、一枚の紙ペラが入っていた。そこにはこう書かれていた。――通話、インターネット、カメラ、アプリなどを長時間使用したり、充電しながら使用すると○×△□○×(←機種名)が熱くなることがあります。熱くなった場合には、充電またはご使用中の一部機能を停止することがありますが、故障ではありません――。私はこのペラの紙切れを発見したとき、噂は本当だったんだ・・・と膝から崩れ落ちそうになった。故障ではないかもしれないが、不具合といえるのではないか。一部機能どころかほとんどの機能が停止する羽目になるとは知るよしもなかったが、日本語のあいまいさを呪わしく感じた。最近、この手の表現が当たり前のように蔓延ってるのを思い出し、ギリリと奥歯を噛んだ。最大の問題は不具合の内容よりも、このような欠陥を承知で製造元は出荷し、販売元は売りつけるという企業倫理に反することである。発売日が延期の延期で延び延びになって、改良が追い付かず見切り発車をしたと勘ぐりたくなるような出来事に、この携帯通信機器業界については「ものを売る」ことを真剣に考えてほしいと強烈に思った。最近の通信機器はこのような売り方が当たり前である・・・と言うのであれば、スマホ人口が増加にあるのだから消費者は黙っても購入してくれるという思い上がりがあるのではないか。お家芸である「きめ細かいサービスの日本」は一体どこへいったんだ。生活・ビジネスに密着するための新しい機能を持った製品だからこそ、もっと分かりやすく丁寧に売って欲しい。製品も完成していない、値段も決まってないうちから予約を取り、不具合承知で売りつけるやり方は、果たして社会通念上いかがなものだろうか。もし、ものをつくるモトといわれている工作機械業界にこれと同じようなことがあったとしたら・・・・と思ったらゾッとする。新しく購入した工作機械の納品書の中にこのような文書があったらメーカーおよび代理店等、業界をあげて大変な問題になるのは間違いない。幸い、この業界にはそういった問題はあるわけもなく、日々、コツコツと産業を支えている。「みんながそうなんだから、そうで当たりまえ」という考えは私にはない。物事の善悪が多数決で決まってたまるか。異常が当たり前であるほど怖いものはない。以前、友人が「君たちはガリレオの気持ちになったことがあるか」と言ったことがあった。まさしく、今の私はそんな気分である。

○○女子ってなんだ!? 

私は女性だが長くこの製造業界に身を置いている。今もそうだが、当時もほとんど活躍している女性はいなかった。―――が、厳密にいえば“目立つ場所にいない”・・・といったところだろう。産業を扱う記者はもちろん、企業では営業、技術者で活躍する女性が少ないというのが正しい表現だと思っている。それもそのはず、男女均等雇用法が施行されたのは1986年。日本は先進国でありながら26年前までは、性別を理由に賃金の不平等があって当たり前だったのだ。私が○○女子という取り組みや名称を嫌悪する理由のひとつに、まず性を全面にあげることがある。このご時世、グローバル化が当たり前の世の中にあって、厳しいビジネス環境に、「女子だから頑張っている」はすでに通用しない。女子力(じょしりょく)という言葉が流行っているが、使っていい時と場合があると思う。ビジネスの世界においても言葉にTPOの概念を持ってもいいのではないか。本質的に仕事に問われるのは女子力じゃなく、“人間力”だろうが。一方、家族で営んでいる町工場では、娘さんやお母さん、お婆さんまでが手伝ったり働いたりしていている。「女性なのにどうして現場で働かなくちゃいけないの?」なんて言わない。当たり前のように昔から加工現場でバリを取ったり加工のお手伝いをしている女性だって多く存在するのだ。このように三度の食事の支度をしながら油まみれで働いている母ちゃんに対して、誰も「頑張る☆加工女子」とは言わない不思議。それこそ、もっと称賛すべきであろう。女子という言葉には、女の子、娘という意味合いがあり、“保護”のイメージがある。つまり、○○女子という言葉には、女性は保護の対象である・・・という概念が前提にあるから出てくる言葉であって、この表現に古めかしい昔の日本をそのまま引きずっている臭いをプーンと感じ取ってしまうのだ。したがって○○女子という無造作な言葉の使い方に私は絶望すら覚える。このご時世、仕事に必要なのは何度でもいうが、性の力ではない。人間力だ。女性は男性に比べ力仕事に限界があるし、身体の構造がそもそも違うのだから、男女は比較の対象にもならない。さらに社会は様々な年齢層で構成されており、ライフスタイルも多様化している。この21世紀において、性別や年齢を理由に余計な先入観など抱く必要もないのだ。若者だけがチャレンジできる、頑張れる特権があるように思いこんでいるのであれば、それは偏見であり、偏見に満ちたマジョリティを正しいものと認識する社会に危機感を覚えている。元気のよい高齢者が日本で培った技術を持ってどんどん海外に流出してしまった問題を忘れてはいけない。現在、世界がものすごい勢いで変化をしている。日本がグローバル化の波にさらされながらこの厳しい環境で生き残っていくためにも、これらの無意識なる偏見を今一度見つめ直して欲しいと願う。私ごとで恐縮だが、過去に仕事がうまくいくと「女だからできたんだ」と言われたことが多々あった。その都度、眉毛をつり上げ、こう言い返してきた。「女だからじゃありません。私だからできたんです」と。誤解を招かぬよう加えておくと、プライベートに関しては、いつまでも保護の対象として猫のようにぬくぬくしていたい願望がある。

日本は「科学技術創造立国」・「知財立国」を目指せ!

先日、帝国データバンクが衝撃的なデータを発表した。国内製造業が2002年以降で4万社が消滅、製造業全体の売上高推移をみても2000年に比べ14兆円が減少しているという。現実はこんなものじゃないだろうと推測する。夜逃げや届け出を出さない企業も含めると数は増加するからだ。これを年商別にみると、中小企業と大企業が対照的な結果になっている。年商10億円未満の中小企業が2000年に比べて22.8%の減少で、減少率はトップ。年商規模が小さくなるほど減少率は上がっていた一方、1000億円以上の大企業は5.3%上回り、売上高は増加していた。これからも中小企業が業績悪化に頭を抱えていることが分かるが、現在、化け物のような円高問題や、原料高がこれでもかと製造業に追い打ちをかけている。まさに危機的状況、瀕死の状態であるが、この問題は経営者だけが四苦八苦してもどうにもならない。特に円高問題は、日本一国で為替介入をしても、その場しのぎで効果はないだろうと推測する。先進国で協調介入をしようとしても、先進国でさえ、自国の財政難でそれどころではなく、協調介入の実現は困難だからだ。先般、日本だけで為替介入をしたが、効き目があったのは残念ながら1日だけだった。おそらく今後もこんな状況が続くと思われる。品質の良いものを日本でつくっても価格競争で今のところは確実に負ける。そのため現在、海外生産比率を上げる、海外調達を増やす等の円高対策を行っている企業も増加した。海外生産拠点を新設・拡充する企業が増える一方、国内生産は縮小せざるを得ないような状態である。政府は海外移転を食い止めようとしているフシがあるけれど、企業が“生き残ること”を第一に考えれば、むしろ積極的に海外に進出することも視野に入れるべき時代がきたのかもしれない。なぜなら、現在の円高基調は今後も続くと思われるうえ、将来的には東アジア共同体らしきものも組織されると思われるからだ。地理的にもアジア地域は日本から遠くないので国内出張と同一視されるようになってもおかしくない。ちなみに裾野が広く経済波及効果の高い自動車業界の動きをみても、インドネシアが東南アジアにおいてタイに次ぐ二番目の輸出ハブになると見込んだトヨタは3.4億ドルを投じてインドネシアに新工場を建設すると発表した。この動きはトヨタのみならず、各自動車メーカーも相次いで同国での生産能力を増強するとしている。ところが、中小企業の多くは海外に出たくても資金力に乏しく動きが取れないのが現実であるから、ここは一発、政・官・財を挙げて海外進出ファンドの創設など、思い切った海外進出支援策が必要ではなかろうか。政府の中小企業政策も“従来型支援”から大きく転換すべきであると考える。日本の中小企業には、優れた技術と技能を持つ会社も多い。先ほど、“品質のよいものを国内でつくっても価格競争で負ける”と書いたが、世界中探し回っても他にない唯一の技術と技能があれば、値段が高くても顧客はついてくる。これは強い。競争しなくて済む。どこにも追随させないほどの技術と技能があれば必ず国内で生き残れる。救いはそんな会社が日本にゴロゴロしていることだ。実際、私が今まで取材した町工場の中には『この加工はウチでしかできない』と自信に満ち溢れているところがたくさんあった。産業空洞化が懸念されているが、先述の理由から日本の大企業は、これからも国内で世界最先端の技術を開発し、コストの安い海外で生産する体制が加速してくるだろう。そうなれば新興国への技術流出は当たり前と捉えなければならない。以前にコラムでも書いたが、(「見たくないものに目を向けることも時には必要」)現実から目を背けてはいけない。今、産業界が考えなければならないことは、技術流出をもろもとしない、強固なものづくりである。真似をされたらそれを上回る技術を開発すればよい。新技術・新商品は世に出せば、間もなく旧技術・旧商品になってしまうものである。目まぐるしく変わる時代の中で新製品を次々と展開し、売っては逃げるの“売り逃げ”をするのも日本企業が生き延びる道のひとつであろう。そのためには、“創造する力”が必要だ。日本の得意な技術は、「切る」「磨く」「穴をあける」「削る」そして『考える』。今こそ日本が目指すべきものは『科学技術創造立国』あるいは『知財立国』だ。

化け物のような円高

円高がヤバイことになっている。ドルも弱すぎる。おまけに電力の不安定要素は国内製造業にとって決定的なダメージになる可能性も出てきた。加工中に電力供給がうまくいかなくなった場合、段取り時間等のロスを考えるとゾッとする。さらに電気料金の値上げ等でますます製造業における経営環境は厳しくなるわけで、これじゃ「日本でモノを作るな、海外へ行ってくれ」と言っているのと等しい。多くの企業が国内生産ラインを維持するのも、もう限界だろう。天災が起こる前のねずみのように日本から企業がパァーッと逃げ出している一方、逃げたくても逃げられない中小企業がどのくらいあるのだろうか。某機械メーカー社長が嘆いていた。主力製品は、1台20万ドル。3年前は2400万円。それが今は1600万円。競争相手の欧州勢はユーロ安のおかげで値下げしているわけで、ここからも分かるとおり、一部の大手を除いたメーカーは厳しいコスト競争に晒されている。円高が日本に与える影響の大きさを軽視しすぎているように思えてならない。国民が豊かな暮らしを送るためのモノがつくれないということは、国力の低下を意味している。私が“ムンクの叫び”と同じポーズを取るほど驚き、怒りのあまり膝から崩れ落ちそうになったことがひとつある。それは菅総理がこの化け物のような円高を「一時的な現象に留まることを期待している」あるいは「引き続き注視する」の旨を述べたことだ。注視している間に死んじまう! とコメカミが破裂しそうなほど憤慨した。注視=何もしない・・・に聞こえる私。おそらく菅総理は、円が50円を切っても、永遠に注視し続けているだろう。個人的な意見だが、注視するというから円高は進む。想像上だが、私がもし海外の人間(←しかも資産持ち)だったら、今頃、「あの調子だもんな、どーせ何もしないだろう・・イヒヒ」とドヤ顔でブランデーでも呑んでいるに違いない。ハッキリ言って日本はナメられている。「場合によっては介入する」となぜ言えないのだろう。強気の姿勢も時には必要だと私は言い切る。空威張りでもいい、世界に向けて牽制する素振りをチラリと示すだけで少しは違うのではないか。以前ならば、“ミスターエン”なるものがアメリカへすっ飛んでいき、いろいろと策を練っていた(はずだ)。このような人物はもういないのだろうか。ほとんどの中小企業が魑魅魍魎かつ、わけのわからない外国に従業員を引き連れて行くことは非常に難しい。本来、製造業は老若男女、様々な方に広く雇用を提供できる土台があった。このままいくと日本の失業率が増加する懸念があるが、そうなった場合、企業にそのツケを押しつけ、当たり前のように雇用促進をうたうのだろうか。だとしたら、日本の経営者をナメんな! と言いたい。このままいくと、“持続不能なビジョン”で日本列島から優秀な人も企業も消滅する可能性も出て来た。六十男の悔し泣き――――。国会の場において悔し涙で頬を濡らす閣僚の姿を見たら、いかに閣内が矛盾・複雑化しているのかが分かる。軽率な総理と道理の板挟みで苦しむ閣僚の姿を拝見し、心優しい私は思わず友人でもないのに貰い泣きしそうになった。閣僚を泣かす総理はダメダメのダメ男だ! とハッキリ言おう。

見たくないものに目を向けることも時には必要

ものすごく気になることのひとつに近年、ものづくりの重要性が問われている割には、薄っぺらい議論ばかりが先行してしまい、肝心なキモの部分に触れられていないことがある。2年ほど前のことだった。ものづくり補助金(試作開発支援事業)の採択結果が出たけれど、「試作・開発」として事業主が申請した件数は7387件。うち採択数が1657件。分野別は公表していないが、この数字を見る限り、いかに国内製造業の現状が厳しいか分かる。「試作・開発」として募集をかけているにもかかわらず、7387件のうち、5730件に斬新な技術開発が見つからなかった。78%も目新しい技術がないのに申請してしまうところに製造業の厳しい環境を見た気がする。バブル崩壊やリーマンショックなどの異常経済時は、ほとんどの経営者の顔色が悪かった。問題は、景気が良くなっても、数字が上がらないところ(業界)だ。これは、企業うんぬんの前に産業構造を見直す必要があると感じている。国が中小企業救済の一環として展開しているシステムを単なる“延命措置”だけが目的の会社に利用すべきではない。不景気のニュースになるとよく中小企業が映し出される。経済からのアプローチだと、景気が悪いありきで視聴者に分かりやすいよう訴える手ではあるが、「大変だ、大変だ、なんとかしてくれ」ばかりじゃ問題の本質が隠れてしまう。TVの討論番組でも、中小企業を代表していつも“業績の悪い”町工場の社長と産業に疎い政治家やタレント学者が環境悪を訴える。これは非常にやっかいなことで、国民に「あの専門家が言っていたから」という、メディアの“入れ知恵”がはびこる結果になり、問題の本質が雲隠れしてしまう。問題の本質を突き詰めるどころか、「経営者は大変ですね」の一言で片づけられる可能性だってあるのだ。中には、困ったことに「他に会社の経営がうまくいく方法があるのなら、それを教えてください」などと開き直る場面もしばしば見られる。本来、「それを考えなきゃいけないんでしょ」と言いたいところだが、一部のメディアがこうした発言を擁護するものだから、とうとう現実的な問題点を探るよりも、『中小企業=弱者』という風潮がまかり通るようになってしまった。私が最も懸念する風潮の一つである。中小企業のほとんどは資金繰りに四苦八苦している。「お金がなくて資金繰りが大変だ」と言っているのと、「お金がなくて技術開発ができない」と言っているのとは意味が違う。能力のある会社と他力本願の会社が中小企業というワクの中でゴッタになり、中小企業全体が沈んだ印象を与えることも問題である。今や有能な企業に企業規模は関係ない。有能な企業に資金を流して国際競争力の強化に一役買って欲しいと願っている。別件だが、いまだに多くの加工現場が手形決済に苦しんでいる。これは21世紀のこの日本で唯一グローバルスタンダードから外れた仕組みだといえるだろう。個人的には手形制度なんていうものはそのうち無くなればいいと思っている。製造業を取り巻く環境は恐ろしいスピードでグローバルに進んでいくのに、いまどき手形などナンセンスそのもの。20世紀中に始末しておくべきだった(←あくまで個人的な意見)。今の時代、何があるか分からない。現在、円高と電力供給問題でますます空洞化が加速すると言われている。体力のある企業は海外で事業を展開できるけれど、そうでない企業のほうが圧倒的に数は多い。やった仕事の半年後(←半年後というのも妙な話だが)にカネが入って来るとは分かっていても、この半年の間になにが起こるか分からない。回収できずに連鎖して倒産・・・という恐ろしいシナリオだって全くないとはいえないのだから、売上を伸ばしても不安は拭えないのは当然のことである。利益なき繁忙ほど嫌なものはない。縮小する国内市場を前に問題の本質をきちんと見出して対応していくことはとても重要なことだと思う。

なんでもアリの風潮と困った人々

先日、こんなニュースがあった。渋谷駅にある岡本太郎壁画に芸術家集団を名乗る輩が無断で細工したのだ。本人たちは、「原発事故で歴史は更新されてしまったので、ヒバクのクロニクル(年代記)に福島を付け足した」とのこと。ここに、主義主張を通すためならなんでもアリが許されるのが芸術家だ、という妙な特権意識臭をプ~ンと感じとった私。私も主義主張を通すため、いたるところにイタズラをしてみたい衝動はあるが、かろうじてグッと堪えて今日に至っている。原発問題に触れて問題を世に問うことは良い。売名行為も悪いとは言わない。ただ、彼らが一見、悲惨な日本の現状をアートで表現するという、至ってマトモな動機を示しておきながら、本当の目的は違うところにあるのは一目瞭然である。人の苦しみや悲しみに深い理解を示すなら、まず、この巨大壁画を復元してくれた皆さんの気持ちを考えることはできないのか。目の前にある隠れた苦労に気付きもしないで、なぜ人類愛を説くことができるのだろう。作品を傷つけないからいいんだ、というのであれば、それは違う。他人の作品に無断で手を加えておきながら、それはないだろう。岡本太郎の作品云々というよりも倫理観の問題なのだ。主義主張を通すため、なんでもアリの風潮がまかり通るのはよくない。この問題は今の日本を鑑みても通じるものがある。また、今回、タレント学者がこれらの行為を正当化していたが、問題の本質をなにも分かっちゃいない。私に対しても「ここは北朝鮮か」とご丁寧に暴言を吐いてくれたが、若者の主張と倫理観の問題は別だ。もっというならば、最近、この手のコメンテーターは己の影響力を考えずに発言する。いろんなイデオロギーがあって当然のことだが、高齢者を同一視した上で社会からの排除を口にしたり、大企業は悪だと決めつけたり、あまりにも短絡的すぎる。己が社会に与える影響をまったく無視していることも問題である。若者だろうが老人だろうが優秀な人は優秀である。生き方は本人が決めるべきで社会が決めることじゃない。“大企業は悪論”もいまいちピンとこない。企業のこういう仕組みのこういうところが良くない、とハッキリしなければ問題点はボケるというものだ。私は弱小ゆえ目立たないが細かいとこまで製造業を取材しているし、自分も事務所を抱えているから経営者の苦労や産業構造の問題点は少なくとも、このわけのわからぬタレント学者よりは理解していると自負している。いくらイノベーションなんて耳障りの良い言葉を使っても、普通の方がイノベーションを起こそうとすると、カッコ悪くて、惨めで、屈辱的な思いをすることのほうが多い。誰もが優秀ではないのだ。私も優秀ではないから何度も屈辱的な思いを経験し、枕を涙で濡らしたことも多々あった。挑戦して砕けたこともあったけれど、私はそれを社会のせいだと一度も思ったことはない。ほとんどの方々が地道にコツコツやっている世界で生きている。コツコツの積み上げをバカにするような発言を垂れ流し、他人の努力の上に胡坐をかいて、声高々ときれいごとを言うのはいかがなものか。すでに企業規模を問わず、多くの企業がイノベーションを起こそうと躍起になっている。そういうところを見ずに、なにが反体制だ。反権力だ。バカバカしい。そういう短絡的なもの言いにもう、飽きてきたわ。

社会を構成しているのは健常者だけではない

先日、友人から「東レ経営経済研究所(現:特別顧問)の佐々木常夫さんの講演を開いたんだけど非常に勉強になった」という話しを聞いた。東レといえば材料の会社である。日本の経済は材料と加工技術が支えているといってもいい。東レで有名なモノといえば炭素繊維複合材料(CFRP)で、この製造業界に身を置く方ならご承知のとおり、軽くて丈夫、省エネにはもってこい材料である。自動車や新型航空機に一役買っており、とにかく東レは日本だけでなく世界にとっても必要な企業のひとつといっていい。佐々木氏には3人のお子さんがいる。そのうちの長男は自閉症だ。自閉症といってもまだまだ認知度が低く、脳の機能障害が原因と聞いた。1000人に3人くらいはこの病気を抱えているらしい。当時、佐々木氏は働き盛り。奥様は一生懸命子育てをするのだけれど、その奥様がうつ病にかかってしまい自殺未遂を起こしてしまう。数年間はずっと入退院の繰り返しをするほどだった。この状況下、働き盛りの佐々木氏は家事をこなしながら仕事をやり遂げた。佐々木氏はスーパーリーマンだったわけだ。もちろんまだ小さな子どもたちのサポートもあったり、職場での協力もあって仕事も家庭も決してあきらめることはなかった。―――と、私が一体なにを言いたいのかというと、佐々木氏によると、日本には身体障害者が150万人、自閉症は100万人、うつ病は400~500万人、その他にも引きこもり、認知症、知的障害、精神疾患・・・全てを合わせると2000万人を超えるそう。つまり日本人の5人に1人はなんらかのハンディキャップをお持ちだということ。ところが、世間は健常者だけで構成されているようにも見える。病気や障害を持っていることは決して恥ずかしいことでもないのに、どういうわけか隠す風潮がある。みんなが公表をしたがらないから問題が表に出てこない。両親も年を取り、痴呆症やアルツハイマーにかかるかもしれない。多くの働き盛りには生活習慣病という病も忍び寄る。もちろん他にも重い病気にかかったり、事故にあったり、よく考えれば人間が寿命をまっとうするまで五体満足で死ねるということは奇跡に近いことかもしれない。問題は、これらのリスクは人間である限り、誰もが平等に抱えるリスクだということをみんな忘れているということだ。都合の悪い事実には目をつぶり、見てみないふりをする。今回の東京大節電で感じたことがある。もちろん今時期、節電はとても大切なことだが、駅のエレベーターの表示も暗くて見づらいし、どのエスカレーターが動いているのか表示すら分からない。これが5人に1人はなんらかのハンディを抱えている日本の現状だと思うと切なくなる。何度も申し上げていることがある。それは、「偏見に満ちたマジョリティが正しいという社会であってはならない」ということ。健常者だけが社会を構成していると思ったらまさしく大間違いである。