直目

ブーム感満載の「女性活用」、「〇〇系女子」ってのもうやめようよ

STAP細胞を開発した小保方晴子さんの快挙が連日報道されている。ところが――――。毎度、しつこいくらいに言っている違和感がまた出てきた。2年ほど前に書いたコラム「〇〇女子ってなんだ!?」↓http://seizougenba.com/node/1210この違和感は、「可愛らしい女性の快挙」、「割烹着」、「リケジョ」、という言葉がこれでもかと出てきた挙げ句、彼女がしていた「指輪」や「ムーミン好き」という実にどうでも良いことばかりにスポットが当たり、ドクターである小保方さんの偉大な研究開発が軽く見られてしまうという危機感から来るものだった。割烹着は構造を見て頂くと分かるとおり、手術着と似ている。作業は身体の前でするものだから異物(埃など)を嫌う環境下において、ボタンやヒモなどは後ろにあったほうがいいという理屈にあう仕様なのだ。割烹着に着目したという視点に、さすが研究者だな、と感じた。さて、本題に入ろう。最近はなにかっちゃあ、「女性の活用を」という動きがある。ビジネスにしろ研究にしろ、女性が注目されなきゃいけない理由を問いたい。「女性ならではの感性を生かす」という言葉もよく聞く。分からないわけでもないが、感性はそもそも性別で分けるものではない。中味なくして女性、女性と大騒ぎしていると、「うちは女性を活用している。時流の最先端」というポーズだけの女性活用になりかねない。この場合、叫ばれている「女性の地位向上」とはまったく逆であり、女性を悪用したPRに成り下がる危険性を孕んでいる。製造業界ではすでに当然のごとく、企業規模関係なしに適材適所に人材を配置している。必要とされる個人の能力は環境によって違うが、求められる能力に区別はあっても差別はない。男女とも若かろうが年配者だろうが優れた人は優れているし、ダメなヤツはダメダメなのだ。ここで主張したいことは、「性別や年齢を理由に、個人の可能性を否定することのない世の中の仕組みづくりが重要である」ということ。女性だけに注目しなければならない理由はどこにもない。知人が先日、「女性が私たちの力をみせましょう! というのはまだわかるが、オッサンが企画する“女子力イベント”に違和感がある」と言っていた。まったく同意見である。最近は「リケジョで美人~~」などのワケの分からない企画まで飛び出てきて、それに進んで乗っかる女性が増殖しはじめた。こういったブームありきの場合、リケジョというブームに乗っかり注目をひくことが狙いなので、本来の目的である理系の面白さを追求するには至らないことのほうが多い。今回、小保方さんのぜったい諦めない執念には大きく感銘した。小保方さんを支えた方々も素晴らしい。小保方さんが相談をしても諸先輩が「知らん」とソッポを向いてしまったならば、ひょっとして今回の成果には結びつかなかったかもしれない。今回のこの素晴らしい成果は小保方さんが積み重ねてきた研究はもちろん、研究をとおしてできた交友関係も素晴らしいものだと知ることができる。これは女性力ではなく、お人柄と努力といった小保方さん自身の“総合力”の成果であろう。もうひとつ言いたいことがある。ips細胞を活用し、世界で初めて網膜細胞などの製作に成功した高橋政代さん(神戸理化学研究所網膜再生医療チームチームリーダー)は、偉大なドクターである。世界初の技術なのにもかかわらず、国内メディアでの露出が少なかった。しかも、なぜか「〇〇女子」とか、「リケジョ」などという呼称もなかった。もちろん、こんなことは言わなくても良いことだが、よく考えてみて欲しい。言いにくいことだが大切なことなので正直に言うことにする。女性はいくつになっても女性だ。わたしだったら、「キミの取り柄は研究だけで女性としては魅力が乏しいね」と指摘されている気持ちになる。高橋さんは成熟した女性だからこのようなバカバカしいことなどなんとも思わないかもしれないけれど、未熟な中年女の私が同じ立場だったら・・・と想像すると、偏見に満ちた差別を感じて、毎夜赤提灯で飲んだくれ、「ちきしょ。あたしが中年だから注目されないのか」なんて、確実にひねくれるだろう。こんなバカバカしいことが多発しているからこそ、日本において世の女性達は仕事のやりずらさを感じているのかもしれないとフと感じた。だから安易にブームをつくるだけの本質を疎かにした「女性力の活用」なんて、バカにすんな、と思っちゃうわけなのだ。最後になるが、グローバル化が加速している世の中において、老若男女が出入するコンビニなどに剥き出しにしておいてあるアノ本―――たとえばお尻剥き出しの女性が表紙の「OLのみだらな秘密遊び」とか、「昼下がりの奥様の欲望」など(←注:分かりやすくするために適当に見出しをつけた)のワイセツ本を、せめてひっそり置くなり配慮が欲しいものだ。「女性が働きやすい世の中を」なーんて言う前に細かいことだが、こういった日本の風潮をもう一度見直す必要がある。ブームありきで「女性活用」と言われてもピンとこないのが現実なのだから。

年末に思い出す「当たり前の日常」

今日でサヨナラ2013年。今年も良い出会いに恵まれ、とても充実した年を過ごすことができました。ところで、わたしは1999年の年末から、大晦日になるとずーっと同じ事を考えることにしています。1999年というとまず頭に浮かぶのは、子供時代。「ノストラダムスの大予言」が流行りました。テレビや雑誌ではこの予言について特集を組み、無邪気な子供時代のわたしは恐怖のどん底へ突き落とされたものです。大人になっても、1999年を迎えるまで、心の隅っこで「恐怖の大王が降ってきたらどうしよう」と密かに心配していたけれど、その年、わたしにとって恐怖の大王よりも遙かに考えなければならない事態が発生しました。2000年問題です。「Y2K問題」とも呼ばれましたね。思い出した方もおられると思います。当時、コンピュータの年表示は下2桁主流だったようで、2000年になると、「00」となり、様々な電子機器が誤作動を起こし、世の中がパニックになる・・・というアレです。なにかあるかもしれない・・・と、ドキドキしながら新年を迎えたことを思い出します。ところがです。ご承知のとおり、大きな問題は起きませんでした。「あ~なにも起きなかったね、よかったね♡」2000年の幕開けはこんな感じでした。だけど。わたしはこの時、なにもない日常を送ることが、いかに大変かということを改めて知ったわけです。われわれの生活を豊かにするために、一体、どれだけの人がかかわっているのだろう。当たり前のことはちっとも当たり前ではなく、皆さんの仕事っぷりがあるから、わたしたちはこうやって当たり前のように平和に過ごせることができるのです。あれだけ大騒ぎをした2000年問題も、今では誰も話題にしません。ですが、忘れちゃならないのは、なんでもない日常を送れることは、なんでもないことではないということ。コツコツと地道に働いているいろんな人々のお陰だということ。ものをつくる・・・ということはとても尊いことだと改めて考えさせられます。なので、私は1999年の年末以降、毎年2000年問題を思い出して、あのとき味わった感情を再び呼び起こすことにしています。2013年も今日で終わり。産業界で働いている皆様、お疲れさまでした!

困った人が大好きな困った人が求める「見返り」

困った人が大好きな困った大人が最近増加しているようだ。私も過去、この種の類いに悩まされたことがあるので、今ではすっかりこの類いに触れないように細心の注意を払っているのだが、潜在的にこの種は日本全国多く生息していると見られ、今日もどこかで弱者を探しているようにも感じる。この問題はなかなか根が深く、人間の複雑な心理が垣間見える。さて、他人に自分を良く見せるために必要以上に必死になっている方を見かけることがある。もちろん、仕事をしていれば、ボロボロのクタクタでは相手に「この人、大丈夫かな?」と余計な心配をさせてしまうので、ある程度、見せかけは必要であり、状況によっては違う自分を演出することもあるだろう。ところが、中には、他人に認めてもらうことに痛々しいほどエネルギーを集中させてしまう人がいる。他人に良く思われたいがために周囲を犠牲にし、心の充実を無視した人々。こういう人のほとんどはストレスを溜め込んでいるとみていい。そういうものをまとった人は周囲に居心地の悪さというか、違和感を与えるものだ。もう昔話なので事例とするが、知人にXさんという人がいた。「困っている人を見たら放っておけない」が口癖だった。一見、聞こえが良いのだけれど、Xさんが不自然なのは、自分が幸せではないのにやたらと“人類愛”を説くことだ。身近なところに幸せを見つけられずに、他人に大きな幸せを与えると思っているところに違和感があった。当時、人員不足で困っていた私にやたらと笑顔で近づいてきたXさん。人員不足といっても、一過性のものだったのでそんなに深刻な問題でもなく、「手伝ってあげる」というXさんの親切な言葉を断った。だが、「少しだけ悩んでいる程度だ」と説明しても、「いいや、あなたは困っている。このままだと良くない」と言い張り、一歩も引かない。「困っている人に対して親切にするのは当然じゃないか」私は困った。なぜなら、Xさんがこのように、やたらと親切を口にする割には全く気配りのできない人だったからだ。夜中の11時過ぎに「困っていることはないですか」と電話をかけてきたり、夜中に突然、「困っていると思って」とアポなしでやって来くることもあった。一見、“困っている人を助けたい”という謙虚な動機を示しているXさんだが、不純な下心が丸見えである。受け入れるわけにはいかない。しかももの凄く不潔な風貌で生理的に受け付けないタイプだったのでなおさらだ。ミミズのほうがまだ可愛い。 さて、困った人を見ていると放っておけないXさんは、ボランティア等の活動が好きだったが、心底本当に困っている人の深刻な要求を目の当たりにすると、理想と現実のギャップに耐えきれなくなり、「できない理由」を並べ、途中で投げ出してしまう癖があった。しかも相手が意見を述べるととたんに不機嫌になり、自分の思い通りにいかない苛立たしさを露わにする困ったちゃんなのだ。「弱者を救うという崇高な行為をしている自分の言うことを周囲が聞くのは当然である」と本気で考えているフシがあり、Xさんは、それに対しての称賛という見返りを求めていたのだ。つまり、困っている人を助けたいという崇高な行為に隠された心の内は、強烈に「他人から称賛されたい、感謝されたい」という自己愛からくるものだった。Xさんは、本業である職場環境も自分を取り巻く人間関係も不満だらけで、自分を愛してくれる人は身近におらず、自分も周囲を愛せない。求めていた生き方を送れておらず、悪いことの原因は全て世の中のせい。政治が悪い、会社が悪い、だからこんな日本になった・・・と繰り返し、目の前にある自分自身の問題を無視して、世の中を救おうとする。そんな人が弱った者を救えるわけがない。困っている人を助けたい、人の役に立ちたいという気持ちは尊いものだが、この行為は社会的な成功そのものではない。親切の裏側にある“見返り”や“自己利益”をプ~ンと感じとると、人は感謝の気持など持てなくなる。称賛されることは気持ちがいいものであり、これは正当な欲望だと思うが、称賛されたい気持ちが逸脱して強烈な場合、内面を見つめることが先だと思っている。なにもないから自信がない。だから他人に認めてもらうことが必要になる。人間愛というのは簡単でシンプル。見返りを求めるための手段として人間愛を出すのは良くない。

「ほこ×たて」ねつ造問題について

「MECT2013」の会期中、元気に動き回っていたところ、タイミングが悪く、「ほこ×たて」のヤラセ問題が騒動となった。問題の内容を知って、非常に残念な気持ちでいっぱいである。本当はせっかくコメントを下さった皆様に、一件、一件お応えしたいのだが、なかなかそうもいかず、ここで見解を述べたいと思う。さて、問題のあった対決について私は観ていないが、告発した対決者の元ラジコン世界チャンピオン広坂正美氏の指摘を認めた形となった。広坂氏のブログには、「2012年10月21日に放送された猿との対戦の際には、猿がラジコンカーを怖がって逃げてしまうので、釣り糸を猿の首に巻き付けてラジコンカーで 猿を引っ張り、猿が追いかけているように見せる細工をしての撮影でした」(一部抜粋)とあった。これが事実であれば、道徳といった人間の根本的なことがすっぽり抜けているとしか思えない。もし、人間の首にヒモをくくりつけて走らせたらどうなるか。猿だって生きているし、感情だってある。ねつ造以前の問題だ。結果さえ良ければいい、自分たちのシナリオどおりに動けば良い―――。いつの間にか日本は、目的を達成するためには、手段を選ばなくても当然のような風潮になっていると感じた。物事の「正・悪」よりも視聴者ありきの、要するに数の論理重視の考え方が蔓延しているといった問題のほうが根深く、心配である。さて、私はご承知のとおり、この番組の目玉企画である金属VSドリルを取材しており、普段から製造業界をウロついているので、この対決に限り、企業の取り組みについて全部ではないが、ある程度は理解しているつもりだ。対決現場にいた私も出演者ではないのに夢中になったのは、取材をとおして企業の努力を知っていたからである。番組では、技術的な観点からいうと、正直、多少「?」という表現もあったが、視聴者のほとんどは一般の方なので、理解しやすくするためには仕方ない。それよりも金属VSドリルのキモは、ものをつくる現場において、どんな難関でも立ち向かっていく――という強固な姿勢と勝ち負けの向こうにある企業努力だった。視聴者は“技術・技能者の真剣な取り組み”に感動したのだ。単なる勝ち負けに熱狂したわけではない。テレビでは放映されなかったが、少なくとも金属VSドリル対決でみた技術者の涙は本物だった。大の大人が涙を流すことなどそうそうあるわけがない。そんな企業の努力も虚しく、今回のようなことが起きてしまったわけだが、なぜ、私がここまで言うかというと、社会性・公共性の高いテレビメディアの影響は大きく、国民に物事が間違いだろうが正しかろうが概念を植え付けやすい点に注目して欲しいからである。やっかいなのは“無意識”に価値観や思想を国民に植え付けることも可能であることだ。裏を返せば、楽しい番組もたくさんある一方、一部の人間にとっては都合の良い価値観を国民に持たすことができるツールでもあるのだ、ということを認識してほしいのである。偏った知識と間違った認識が垂れ流されぬよう細心の注意が必要なメディアが、このような努力を怠り、視聴率などの数字ばかりを優先して追いかけると、日本全体が世の中の善悪や真偽について鈍感になり、そのうち、無秩序になんでもありの考え方が蔓延する可能性だってある。ゆくゆくは日本がおかしな方向に向かう危険性だってあるのだ。人間、生きていればある程度ハッタリも必要になるが、本質を疎かにし、その場しのぎの見せかけばかりに全エネルギーを集中させると、いずれ痛い目に遭うというのが世の常であり、実の前の虚はというのはそのうちメッキが剥がれるようになっている。虚構の世界を当たり前のように構築していると、そのうち、どれが現実なのか分からなくなって、現実がどこにあるのか見失う。今回、「これをやれば視聴者は喜ぶ」という、一方的な思い込みがこのような残念な結果を招いてしまったといえるのではないか。視聴者の現実がどこにあるか見失ってしまったとしか思えない。今回のねつ造問題はテレビ番組だけの問題ではなく、日本に蔓延しつつある「無秩序な、なんでもアリの考え方」をもう一度見直すいいキッカケになって欲しい。

読解力のない大人が子どもの想像力を奪う

「はだしのゲンを閉架に 松江市教委が要請」というニュースを読んだ。現実の汚いものから目を背け、子どもたちを現実逃避癖のあるお花畑の住人に育て上げるつもりでしょうか。たしかに暴力的なシーンがありますが、この漫画は作者の体験に基づいて描かれたものですから、貴重な資料ともいえましょう。漫画ですのでデフォルメされているでしょうが、幼い子どもからお年寄りまで、吐き気がするほど悲惨な経験をなさった方々がいたのが日本の現実なのです。重要なことは、この漫画に描かれていることが、単に戦争の悲惨さだけにスポットを当てたものではないということです。想像を絶する混乱期に、人間がしたたかに、たくましく生き抜いていく、という姿を描いています。目を覆いたくなるほどの人間の残酷さを背景に、主人公の正義感が光っているのです。ご飯が満足に食べられないくらい貧乏でも、勉強する機会に恵まれなくても、友情や家族の温かさは人間の生きる糧になるんだということを、しっかり描いています。陰湿なイジメや暴力に対比するのは、「他人を思いやる心」です。私はこの漫画のキモはココだと思っています。中には歴史認識がうんぬん、という方もいらっしゃるでしょうが、成長すれば様々な疑問が出てくるのは当然であり、なにが正しいのか自分で調べて吟味すればいいことだと思います。人生、なんでも世の中任せではいけません。たまには世間の流れに疑いを持って自ら進んで調べることも必要でしょう。そうして、自分なりに解釈すれば良いだけの話です。荻上チキ氏がTwitterで今回の閉架騒動に触れているのを拝見しました。そこには「1巻から10巻までを見ると、時代ごとにだんだんとエスカレートして大変過激な文章や絵がこの漫画を占めている状況であり、第1部までとそれ以降のものが違うものということではなく、「はだしのゲン」という漫画そのものが、言い方は悪いが不良図書と捉えられると思う」と松江市議会議事録から引用した文言を掲載していました。この議事録はネットで確認することができます。この不良図書と言い切った方は大人だというのに、この漫画のキモには触れず、暴力的なシーンやおゲレツシーンばかりに目が行ってしまったようです。読解力が乏しいとしか言いようがありません。いつの時代も真実や重要なことは大抵隠れたところにあり、それらを見つけるには洞察力が必要になります。表面ばかりしか見られない洞察力の乏しい大人が教育現場にいることのほうが、それこそ言い方は悪いのですが有害教育と捉えられても仕方がないと思います。漫画に出てくる町内会長(鮫島伝次郎)のような大人を思い出しました。最近では、広島平和記念資料館が展示してある被爆者再現人形の撤去を巡り議論が起きました。リアルすぎて気持ち悪い、トラウマになるという理由からのようです。経験のない者がその事象を想像しようとするとき、ある程度のリアルは必要だと考えています。そもそも、広島平和記念資料館という場所は、遊園地に行ってアトラクションを楽しむような場所ではありません。どこか勘違いしているのではないでしょうか。なにより、実際に原爆の被害を受けた方は、多くの方が火に巻かれ皮膚が垂れ下がっても歩いているというものすごいことになっているのです。それを「リアルすぎてトラウマになる」とは、被害に遭った故人やご家族に失礼なことだと思いませんか? 私がもし、その時代に生まれていて家族や友人がなんの落ち度もないのにそのような姿になったら「気持ち悪い」なんていっていられませんし、自分がそのような姿になったとしても、他人に「あんたがいると気持ち悪い。見たくない」と言われたらものすごく悲しくなります。このままでは、そのうち戦争はおろか、近年起きた震災の悲惨な状況も、凶悪事件に関するニュースも「トラウマが残る」からといって描写も不適切だ、となりかねない。そうなると事実を継承する手段が失われつつあるということで、その影響は大きいと感じています。なにより個人の考える機会を外すのは問題であり、文明国のやることじゃない。人は様々です。同じ出来事に遭遇しても、同じ感想を言うとは限りません。いろんな感情を持って当たり前なんですから。ちなみに私が生まれて初めて手にした劇画タッチの漫画は、はだしのゲンでした。ピアノ教室に置いてあったのを読んだのが最初です。学校の図書館にもありましたから、自発的に手に取って読みました。この漫画は経験したことのない戦争を知るキッカケになり、漫画から戦争の悲惨さを感じ取ったわけです。お陰様で残酷なことや、きれい事をいって表面だけ取り繕う人を好まなくなり、今ではたくましく生きております。作者の中沢啓治さんの「はだしのゲン わたしの遺書」の中に、こんなフレーズがありました。――いまも、生きるつらさに直面している人は大勢いると思います。そんな人達に、ぼくは、歌を歌えと言っています。悲しい、悲しいと思ってばかりいては、落ち込んでしまいます。そんなときゲンは、何がなんでも生きるために、バイタリティーのある歌やふざけた替え歌を、わざと大口を開けて歌います。みなさんも、ぜひそうしなさいとぼくは言いたい。「負けてたまるか」という気持ちを奮い起こして、生き抜いて欲しいのです――生きているといろんな辛いことがありますが、辛いときに勇気とパワーを与えてくれたのは、この漫画でした。感性の豊かな子ども時代に読んだこともあってか、私にとってそれだけ影響力があったのです。「踏まれても踏まれてもまっすぐに伸びる麦のようになるのだ!」

愛のない外食産業とクーポン

近年、よく見かける外食産業のクーポン。 簡単にいえばグルメ情報を扱う媒体に協賛している店の割引やなんらかのサービスを受けられるチケットのようなものだ。「暑い! ビールを飲みながら肉が食べたい!」我慢できなくなったのでコテコテの肉を食すべく、すでに高齢に達している身内をそそのかして、先日、近所の某外食チェーン店に行ってきた。はやる気持ちを抑えてネットで開店時間を調べると、クーポンがあった。そのクーポンは飲食代が一定金額を超えると会計時に1000円も値引きがされるものだった。ヤッタ―――☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆―――!「ねぇねぇ1000円も値引きされるんだよ、行こうよ!」と、肉をあまり食べたくなさそうな高齢者に1000円値引きを強調した私。「高級店じゃないし、高くつかないから大丈夫だって! 白米をいっぱい食べるからさ!」と、暗に、①財布のダメージが少ないこと、②こちらから誘ったくせに支払いをする気持ちがこれっぽっちもないこと―――を匂わせた。まんまと目的の店に行くことに成功し、席に座ると勢いよく注文した。すっかり欲望を満たした私は、膨れたお腹をさすりながら、なんともいえぬ幸福感に包まれていた。(食った食った~~あぁ~~幸せ~~♪)幸せいっぱい腹一杯、私のお腹はポンポコポン♪  財布は出さぬが割引クーポンがある。会計時に店員さんに提示した。すると意外な答えが爽やかに返ってきた。 「あぁ、これは入店時に提示してくれないと使えないんですよねぇ」  なんですってぇええええええええ!!!!!!!!!!! 一瞬にして“ムンクの叫び”にソックリな表情になったわれわれ。「え? そんなこと書いてあったっけ?」もう一度クーポンを確認する。 確かにクーポンには、入店の際に見せなければ効力がないとひっそり書いてあった。私は膝から崩れ落ちた。なんてこった!肉とビールにすっかり支配されてしまった私の脳は、ド派手な1000円値引きの文字しか目に入らなかったようだ。疑い深い性質なので、このような文言には隅々まで目を通すはずだが、空腹になると注意力に欠けるという恥ずかしい癖がそのまま出てしまった。まあ、これはこちらが見落としてしまったのだから、クーポンが使えなくても文句は言えまいが、フと疑問に思ったことがある。もし、この店が客にサービスをする気があって、提供する食べ物が同じ量・クオリティのものであれば、サービスは一定金額を超えた場合、会計から1000円を値引きするというものだから、クーポンを食後に見せようが、入店時に見せようが、問題はないだろう、と言う点だ。これだと、クーポンを先に見せたら質か量を低下させる、と、疑われても仕方ない行為だと感じる。遅出しジャンケンのようなアンフェア感が拭えないのだ。最近、10年以上通っていたレストランでも不快なことがあった。そこはサービスも良く美味しくて、私はここで食事をするのが楽しみだった。ところが最近、ある日を境にスタッフがほとんど変わってしまった。噂ではオーナーが変わったらしい。メニューと値段はそのままに、味が変わっている。簡単に言うと、食材をケチりはじめたのだ。私はシーザーサラダにアンチョビが抜かれていたのを見抜いた。魚介が使われていたピッツァもむきエビが半分にされていた。美味しかったレバーのパテも全く味が違っていたし、毎度、添えられているスライスして焼いたパンはクラッカーになっていた。商売を続けていると苦しいこともあるのは当然のこと。生き残るためにはいろんな方策を考えなければならないことも分かる。でもこれじゃあ、あまりにも能がないんじゃないか。経営難だったら、メニューをイチから考えるとか、色々考えることはあるだろう。メニューはそのままで食材をケチってクオリティを落とし、利益回復を目指す行為は、長年通っていた客を騙し討ちにするようなものだ。長年通っている客の舌は料理の味を覚えているんだぞ。ははぁ・・・口うるさい近所の者より、小洒落たカップルなどに重点を置いて回転数を上げる作戦に出たんだな、と思った。お洒落な店なので、その手法もしばらくは通用するのだろうが、値段以上の付加価値を求めるのが人というもの。特にレストランの場合、店の味がリピートの決め手になる。このレストランのある地域は、こぢんまりとしているけれど、同じような値段で素晴らしいサービスと味を提供するレストランがたくさんある。長年通っていた客を騙し討ちするような考えでは、客が離れるのは時間の問題であろう。食べることは、人間の身体が生命を維持するために必要なこと。だからこそ、食事は、楽しく、おいしく食べたいもの。 財布の事情もあったり、時間の事情があったり、健康上の問題があったり、その時の食卓は人様々で、毎日満足にいくことは難しい。外食産業は、人間の根本に触れる商売だと思っている。客の空腹だった胃袋が満たされ、幸せな気分を味わえるようにと、そういった部分をもう少し大切にしてくれても良いのではないか。値引きされればサービスの低下は仕方ないという考え方もあり、否定はしない。だが、それ以前に、“フェアじゃない商売”は良くないと思っている。どういうわけか、最近、この手の手法がまかり通っているようで、ものすごく残念だ。

ライフスタイルの多様化

人々のライフスタイルも多様になった。少子高齢化に収入の低下、はたまた失業の恐怖、病気への不安などなど、人は悩みがつきない。少しでも安定した生活を送りたい・・・と誰もが願うだろうし、当たり前の欲求であるが、安定した生活には安定した収入が必要というもの。少しでも生活を豊かなものにしたいのは、若者だろうが高齢者だろうが男性だろうが女性だろうが中性だろうが、みんな一緒の欲求だと思う。ところがどういうわけか、最近、ニュースをみていて日本は本当に先進国なのか? と疑わしいと思うことが度々ある。最近、ものづくりに女性の活用を! みたいな流れが目につくけれど、どうも議論が女性の苦労話にばかり視点がいってしまう。そりゃあ、私も女性なので、その苦労はよく分かっているつもりだ。過去にもオンナはすっこんでろ! みたいなことがあったり、イヤラシイ写真を堂々と見せつけたりする人もいた。なんとなく、そういう発想は中高年の発想だ、と思いやすいが、ところがどっこい、そういう環境下で育成されると、そういう発想を若くても持つものだ。まぁ、こういう類いはすでに時代の遅れをとっているので、ここでは省くことにする。さて、話を元に戻す。私がなにを言いたいかというと、女性の活用を! と言っているわりには、ニュースをみても議論の内容がパッとしないということ。すでに女性の活用は当たり前になっているというのに。ここで注目して欲しいことがある。女性の多くは出産を経験する。つまり働けない期間が出てくるが、仕事が好きでたまらない、あるいは、少しでも豊かな生活が送りたいなど、働く動機が当たり前にあることは、なにも特別なことじゃない。今度は、同じ、働きたくてもフルタイムで働けない事情のある、たとえば、介護の必要な家族がいる方はどうだろう。働きたくても働けない事情があるのはなにも女性に限ったことではない。人にはそれぞれ働く理由があるのだ。独り身の女性も男性も家庭を持つ方も、それぞれ生活環境は様々なわけであり、どんな人でも生活するためには収入がいる。収入を得るためには働かなくてはいけないし、働く土壌であるわが国では少子高齢化などの社会問題もあり、様々な観点からみても日本は労働力が必要だといえるだろう。さて、その一方、雇用する側もいろいろ悩ましいところがある。最近取材したイワタツールさんの場合、ちょうど妊娠・出産を経験した女性や高齢者の従業員(最高79才・最近リタイアした)の話も経営者から聞くことができた。そこで感じたことは権利と義務がとてもバランスよく保たれていたということだ。権利ばかり主張して義務を放棄する社員が増加すると、会社は間違いなく傾くだろう。働く女性は当たり前に増えている。最近はパワハラ、セクハラ、マタハラ(マタニティーハラスメント)、中高年イジメ、などなどいろんな問題がある。いまさら、女性の活用をどうするか、なんて、そもそも時代遅れのナンセンスな発想だと思う。性の観点から物事を捉えるより、“適性”を重要視したほうがいいと感じる。製造業はサービス産業と違い、いろんな人々が働ける土壌がある。今、議論しなければならないことは、“性別や年齢を理由に余計な先入観など抱く必要もない風土をどうやってつくるか”―――だろう。いろんな人々が社会を構成しているのだから。

中小企業への理解と社会の難しいところ

中小企業の良さを理解してもらう・・・という動きが活発化されているが、そこで働いている人間の生活に対して議論が少ないのがとても気になる。ここ10数年で個人のライフスタイルや企業スタイルも多種多様になった。日本を取り巻く経済環境も大きく変わり、国際競争力は激化している。以前、「勝ち組・負け組」という言葉が流行ったが、今じゃ勝ち残るよりも生き残ることが先決だという厳しい世の中だ。大企業だから安定、ということもない。企業の善し悪しは規模では決まらない。さて、中小零細企業への理解を若者に深めてもらおうという動きも見られるが、その前に抜本的な問題を挙げることにしよう。具体的にいうと、将来マイホームなどを購入するなど、人生において重大な決断をする場合、銀行などは社会的なステータスによって明らかに対応を変えるという事実がある。この違いをすでに若者は理解していることを忘れてはならない。若者が理解できないのは中小企業よりも社会の仕組みなのだ。どんなに優秀な人材でも務めている会社が中小零細の場合、厳しい現実を目の当たりにするという事実。実際に経歴をみても非の打ち所のないような方から「親の経営する会社に転職したらマンションが借りられなかった」という話を聞いたことがある。技術力が高く、社長の手腕もある元気な中小企業に優秀な若者が入社して、将来、人生の重大な決断をしたときに社会は何を基準に判断するのだろうかという点はこれから議論が必要であろうと考える。すでに将来を担う若者は素晴らしい技術を持った中小企業が多く日本にあることも認識しているし、十分中小零細企業の理解もしていると思うのだが、どういうわけか中小企業というと一部の顔色の悪い経営者とこれまた一部の産業に疎い政治家やタレント学者がこぞって「世の中は中小零細企業の良さを分かってない!」と声高に叫び、煽るに煽っている印象がある(もちろん、そうでない人もたくさんいる)。これについては、中小零細企業=弱者のイメージがあることをいいことに、中小零細企業の問題を解決する――ということよりも、弱者を救う素敵なオレ(わたし)を見せつけることが目的なんじゃないかと疑りたくなるときもある。せめて「中小零細企業の良さを分かったところで社会はどう対応するのさ」というところまで突っ込んで欲しいと思う。一方、重要なことだが、中小零細企業ありきでモノを考えると、能力のある会社と他力本願の会社が中小零細企業というワクの中でグチャグチャになってしまうという危険がある。有能な会社は伸びる可能性が高いわけなのだから、そういう会社をもっとバックアップするべきだろう。悪い会社に引っ張られて元気の良い会社が貧することがないよう気をつけなければならない。また、景気の善し悪しに関係なく業績が悪いとするならば、一概に、悪いのは社会のせいではないということを付け加えておこう。今、変えなければいけないのは中小企業へ対する認識じゃなく社会だ。根本的な問題を解決するためには考えなければならないことがまだまだある。最近はマジメな顔をした有識者がまじめな顔をしてデタラメを言うこともしばしばあるので気をつけなければならないと思っている。

文句ばかり出るのは不安に浸かっている証拠

国内市場の縮小に伴う仕事そのものの減少は、経済的な問題を引き起こし、精神的にも肉体的にも休むことが困難になる。これがストレスにつながっていくわけだが、ストレスは胃を弱めるなど肉体のダメージはおろか、時間が経てば心も蝕ばんでいくからやっかいだ。不安要素の前をあれこれ並べては心配ばかりしている人もいる。その不安のベクトルは、世間が悪い、政府が悪い、企業が悪い、と全てナニかのせいにしていることも非常に気になる。未来を「暗いもの」と位置づけ、幸せを感じることができないのはなぜだろう。不安に浸かっている人の中には、その不安を周囲に見透かされぬよう凶暴な態度に出るものもいる。自分よりも弱そうな人物を見つけて叩けば、優位性を示せる――と本気で考えている幼稚な考えの持ち主であろうと想像する。私の場合は女性であり、大手媒体でもないので、この手にごくたまに遭遇することがあるが、一度だけ不快感を示したあとはスルーすることにしている。さて、世間や環境の悪口ばかりをいう人の多くを拝見していると、心配で心の中がいっぱいでありながら、不安を払拭するための方法を探そうとしていない。モチベーションを上げるための努力もせず、やってもいないのに「それをやったからといって現状は変わらない」と、たとえ努力している人々が目の前にいたとしても、一言水を差さずにはいられないのだ。社会に対しての敵意と憂うつにコントロールされた人々は未来のための努力をするエネルギーが枯渇しているようにも感じられる。いつも不安で将来の心配ばかりしているから心身ともに疲れきっているのだと思う。疲れきって、にっちもさっちもいかなくなっているから、惨めな自分にしたのは周囲だ、環境だ、会社だ、あいつだ、家族だ・・・と恨みつらみをいいたくなる。だからますます孤立し、孤独感に苛まされ、不安や心配が溢れて、みだりに迎合したり、何も手につかなくなるのだと思っている。成功者といわれている人の共通点は、どんな時代であっても、逆行でも「信念」を貫いている。何度失敗しても、笑われても、「成功する」ことを大前提として動いているし、失敗しても「うまくいく」ことを当たり前として捉えて前に進んでいるように感じる。世の中には動き続けるものは動き続け、止まるものは止まり続ける―――という慣性の法則があるのだし、どうせなら楽しく動いていたほうが徳だと思っている。

モラルの欠如

先日、突然、こんなメールが入ってきた。内容は2年ほど前に掲載した某販売店のニュース記事についてである。2次店等のしがらみで「取り下げてほしい」ということだった。ちなみにその記事は、その会社が自らリリースをしたもので、すでに他の媒体も掲載している。何度も言うが、もう2年ほど前の話である。当然のことながら、「正当な理由がない限り削除はできません」と返答した。その理由は、ニュース自体が間違っているならともかく、こちらはなんの落ち度もないわけで削除する理由が見当たらないのと、ニュースのデーターはそう簡単に削除できるものではないということである。掲載済みのニュースは記録でもあり、財産でもあるのだ。そもそも、なぜ、自分たちの問題をこちら側にぶつけてくるかもさっぱり理解できなかった。その後、先方の社長からお詫びの電話がかかってきたが、相変わらず削除してほしいとのこと。その理由を尋ねると、恥ずかしくもなく、こう述べた。「僕のポリシーですから」・・・・・・ううむ・・・。ますます理由が分からない。事実が変わったのであれば、新しくリリースを発表すればいいだけの話である。臭い物にはフタをすることがポリシーだというのか。過去の失敗を消してリセットしたい気持ちも分からないではないが、そこには秩序があってしかるべきであろう。だいたい企業において問題ごとはつきものであり、どの企業もその都度きちんと対応しているのが現状である。高飛車に他人の権利を奪うことに対して、なんの罪の意識も感じない社長がいることに驚いた。こんなケースは長年仕事をしてきて初めてだ。一度発表したものを先方の自己都合でボコボコ削除していたら、ニュースの役目はなくなってしまう。そんなことをしたら、ニュースの配信を商いとしている私自身、信用を失うことになりかねない。自己哲学のない書き屋は消える運命にあるからこそ、「責任」と「信念」を持って執筆しているのだ。簡単に原稿を消すことはできない。ニュースのデーターそのものはこちらの財産でもある。こちら側の権利については一切触れず、一方的に「ポリシーだから削除しろ」というのはおかしな話であり、このような高飛車な理由を受け入れる理由など、こちらにはないことをはっきり述べた。正直いうと、他人の権利を剥奪するようなことを平気で口にする相手のポリシーなんて、こちらは知ったこっちゃないのだ。このような要求に対しては受け付けないことを加えておこう。さらにダメ出しをしたいことがある。このような問題があった場合、社会通念上、メールや電話ではなく、直接会って話しをするものじゃないのか。私は基本的に優しい人物であるから、相手が本当に困っているならば、なんとかしようと思ったかもしれない。相手の顔を見ずにお詫びをしたい、さらには当然のごとく自分の要求を受け入れてもらおうなんて傲慢というもの。ご都合主義で、なんでも自分の思い通りにいくと思ったら大間違いだ。どんな商売でも、相手の立場を無視した一方的な対応は御法度である。